魂
八月三十日、武蔵野でのコンサート第一部のメッセージタイトルは「魂」です。「魂が身体から抜けたら、年齢を問わず、死です」の一言にとても驚き、目がさめる思いでした。
「魂の世界が進行しています。魂が存在する心身が問われます。「魂」というテーマではありますが、まず心身のことです。単に体が健康だと思われても魂が存在する上で充分な状態であるかは未知です。本日の演奏はまずは心身を整え、見ることも感じることもできない魂が存在する心身の状態をあらわします。魂は感じることはできませんが、是非身体の内面をお感じください」
魂の世界が進行していることは先日若光王の墓前に立った時に見えた光景によりよくわかることができます。たった何秒かのことであったと思います。先生が墓前に立たれた後に、再び墓前に立つと、私の生命に連なるたくさんの魂がいだき講座を受けたようだと感じたのです。歴史の闇に覆われ、影となり生きた長き年月が、光に包まれ、一瞬にし、光満ちる世界と変わったのです。魂は先生に出会えば一瞬で蘇ります。連なる魂が一瞬にし蘇り、動き始めたのです。先生が帰路おっしゃってくださったお言葉が希望です。私が聞こえたメッセージや見えた光景はたとえあるシンボルであったとしても、その方向に向かいたくさんのはたらきかけがあるということなのだから、やればたくさんの魂が一緒に動き、助けてくれるとのお言葉に魂震え、「やれる」と力強いエネルギーが湧きてきました。受けたメッセージ、見えた光景はとてつもないことです。とても人様には実現するまでは言えませんが、これぞ夢にも見ることもできなったことであっても、求めてきたことです。何度も頭がおかしいか精神がおかしいと思うようにし、自分の内に収めてきましたが、この時ばかりは真であると受け止め、実現に向かい生きていくと決めました。
魂といえば、私は生まれた時から魂共にある人生です。10代の頃から書いていた詩を詩集「麗花」とし出版してくださいましたが、「私の中に住んでいる人」という表現をよく使っていました。生きることの意味がわからずに苦悩の人生を生きてきましたが、常に自分の中に住んでいる人が、道から外れない為に、共にあることを感じていたのです。私にはとても苦しいことでした。外れてはならない道とは何なのかと随分考えてきました。常に一本の道に戻されるのです。そして常にどの自分で生きから最も自分らしいのかと悩んできました。先生にお会いした時、自分の中に住んでいた人は若光王と知りました。知ると同時に合点がいきました。先祖の魂でありそれも王様のような人だとずっと感じていたからです。女であるのに、ある場面では「無礼者」とまるで刀で無礼者を切るような感覚が起こるのです。何があっても譲れない魂をいつも感じ生きてきました。外れてはいけない一本の道とは、先祖代々受けつがれてきた天を地に表す魂を失って生きてはいけない人生とは先生にお会いでき、父母が亡くなってからは生命をもってわかりました。
母が亡くなり、父が亡くなった時、まるでタコ糸の糸が切れたように地に落ちました。父と糸にとってつながり、糸を父がしっかりと持ってくれていたので、父が存命中は、大空を飛ぶタコのように生きていたのだと思い知りました。地に落ち、倒れ、私を呼ぶ声はすれど先生や先生のご家族がいるところに這い上がっていけず、暗闇の中で起き上がれずにいる時、先生が紙に一言「魂」と書いてくださり、私は起き上がることができ暗闇から這い上がってこれたのです。以来、「高句麗伝説」の詩の原稿ファイルには、先生の書「魂」を1枚目に入れさせていただき、お守りのようにし、要を決める気持ちで魂の詩を詠ませていただきました。
魂を語れば延々と語れます。今日の先生の演奏にて、第二部のメッセージの最後に書かれてありました「魂、心身一如」を経験しました。魂と身体、心はひとつでした。先生のピアノの音に魂、身体、心が一体となり鳴り響き、まるで体が鳴っているようでした。完全にすべてが一致していました。最高に心地よく、幸せを感じます。パイプオルガンの音では、宇宙はるか彼方とひとつである生命を感じ、魂は永遠に輝く星のように輝いていました。頭の歪み、ノイズがうるさく、尖ったり凸凹のように見える意識が光に包まれ、癒され、整えられていきました。全てが一掃され、とてもさわやかな新しい人間となりました。
第二部は、「魂の甦り」です。冒頭に「どのくらい長い時間、人は魂のことをわからなくなってしまったのでしょう。先祖により民族により、いかなる歴史の元で生きたか、などなどです」
魂の世界は進行し、「いかなる各々の事情があっても魂の世界は甦るような時を迎えました。今までは誤魔化し、隠せていたことも未来の為に考え、行動しなければいけないことなども如実です。魂、心身一如」
魂の甦りを実感する今この時です。演奏をお聴きし、恥ずかしながら、頭がほぐれ、頭を垂れます。ほぐれなければ生きていけない意識や頭のはたらきなので、溶かしていただいているのです。自分では目に見えるようにわかることがあります。辻褄が合わないこととわかっていても、この世の事情に合わせ、いつも2つの頭があると自覚し生きてきました。昨日も書かせていただきましたが自分がやりたいことであるのに、やれずに嘆いたり、変わろうともせずに、できないことを繰り返している人と一緒にはたらいたり活動することは私にとっては大変気持ちが悪いことでありますが、多くの人がそうなっているので、仕方がないとし、気持ちは悪くても外側の意識で言い聞かせ、やむないこととし目をつぶるのです。気持ちがあれば実行し、実現するのが人間と私は考えているのに、この世の多くを基準とし言い聞かせるという面倒なことをし、頭を痛め、体を痛めているのです。バカがつくほど人がいいとはよく言われてきましたが、このような人の良さは馬鹿であると今ははっきりとわかりました。よく騙され、ぶら下がる人が集まってきます。自分の内面や生きている状態の現れと今日はよくわかりました。
高麗神社と若光王の墓へ行った時から、先生の声ともいえない生命全ての叫びをお聞きし、目が覚めました。人間は間違っていると一瞬にし全てが見えました。それ以来は、人の声で嘘の匂いがし、言い回しは誤魔化しであるとは図形で一目瞭然と見えます。今日も、開場してから多くの方にコンサートチケットのご協力依頼をさせていただくと、やれない人の言葉は嘘と誤魔化しで真っ黒にみえ、嘘の匂いと生命の汚れが見えました。魂の汚れと表現したいところでしたが、魂もないのかもしれないと、今日のコンサートメッセージを読ませていただき、考え直しています。「魂が身体から抜けたら年齢を問わず、死です」を深く考える人との会話が多かったです。先生の生命賭けの真の表現を聞いたなら、嘘も誤魔化しも見抜けるようになり、騙されやすい愚かであった自分は変わることができました。真実の香りも真実の音も生命で経験しわかっています。この世では嘘が当たり前なので、2つの頭を使い分け生きる癖がついてしまいましたが、今後は生命とひとつの頭で生きていけます。
八月のある日、受講生のある方の魂がここにあるように感じ、お顔まで見えました。ご挨拶に見えたとわかりました。もしや。。。と心配していましたが、この日にお亡くなりになったことを本日知りました。魂はつながり、魂は存在していることに感謝します。
生命ひとつであり、永遠であり、今であり、ここに生きる全ての答えがあります。ありがとうございます。