高句麗軍団のように
10日の府中でのコンサートは、コンサート会場へ向かう道中から何かざわざわして不快な感じがありました。京王線に乗り、電車が調布駅に近づく手前で地下に入って行く際に、いつもごおーっとすごい音がするのですが、その日はごおーっという音がこの世の音とは思えずに背中がぞわっとし、ただならぬコンサートに向かっていることだけは分かりました。
コンサートの第一部で、「純粋悪」という言葉をお聞きし、胸がどきん!とするも意味がよく分からずに先生の演奏に集中しました。その中で過去の悔しかった記憶が次々と蘇りました。正義感、道徳、善悪、世の常識・・を振りかざしてそれを盾にして攻撃してくる人達です。その人達の言っていることは一見まっとうであり、一所懸命こちらを教え諭してきます。まじめに一所懸命に生きている人達に見えるので、反論する余地もありません。反論すればするだけ、こちらが悪者になってしまう仕組みです。けれど、蹴りを入れたくなるくらいそういう人達に対して嫌悪感でいっぱいになる私は、思わずそういう人達に対して、本当に言葉で蹴りを入れてしまうことがあり、それで結局こちらが悪者になって悔しい思いをしていました。「相手と同じ土俵に乗ってはだめだ。ではどうすれば・・?」という所で止まったまま、悔しさを引きずり心の中に澱んでいたことが、コンサートの中で浮き上がりました。そして先生の演奏を一所懸命聞き続けている中で、「先生は戦い方を教えて下さっている」と直感しました。
どこまでも強く、ぶれず、そして美しく生きること、と言葉が生まれ、「一にも二にも、存在を明確にし、美しく」という8日のメッセージがぱっと光となって現れました。突然、ピアノの音が遙かな天から煌びやかに降ってくるように感じて、その瞬間「高句麗軍団のように!」と胸に叫んでいました。敵は高句麗軍団の姿を見ただけで戦わずに去っていったこと、光輝く美しい姫の姿は敵には見えなかったこと、さらには、高句麗の王の素晴らしさに圧倒された敵が、自ら高句麗人となったこと・・・高麗さんが高句麗伝説で詠んで下さる詩が次々と思い出されました。そこに本当の戦い方をみました。先生のピアノの音は、CD「高句麗」を彷彿させました。「高句麗」がどんどん次元上昇していき、日本に、世界に、そして宇宙全体に広く深く強く、伝搬していく音でした。
コンサートの会場を一歩出れば、灰色がかったもやのような純粋悪がうごめいています。それに腹を立てたり蹴りを入れたりするのは愚かな戦い方と分かりました。相手に向かってどうこうする戦い方はもう終わった。これからの時代は、自らがどんどんパワーアップして次元上昇し、いついかなる時も、おおいなる存在とつながり生きること。その生き方がどんな時も決してぶれないことです。「敵」というものさえ無意味な世界になると見えました。もし敵があるとしても、自滅するか、高句麗伝説のように、真に美しく強い存在の光に圧倒されて溶け込み、同化していくと見えました。「一にも二にも、存在を明確にし、美しく」という8日のコンサートでのメッセージが今ここに、燦然と輝いて顕れます。轟く怒濤のような音の払いと浄めの中で、本当の戦い方を教えて頂き、それはこれからの時代を生きる姿勢そのものと分かりました。有り難うございます。
第二部では美しい日本のことがずっと心にあり祈るような気持ちでいました。美しいアリランの旋律に、心の姿勢が正されます。美しい日本の魂が永遠に存続しますように。そして世界の真の恒久平和が実現しますように。自分がいまここに生き、いだきに出会い、コンサートに参加させて頂けることの意味をあらためてよく考えます。
今日、府中での最後のコンサートに参加出来ますことに感謝いたします。