高句麗伝説がもう始まっている応用コース
久しぶりと感じる5月の爽やかな風が心地よい朝を迎ることができました。昨日の応用コースにて、昨日の講座に参加したのであれば、誰だって昨日の講座のこと、いだきのこと、先生の今までなさって来られたことをわからない人はいないでしょう、という今年の節目のような存在共に在る応用コースでした。ピアノの音に涙し、やさしいこと、人はやさしさのなかにあれば素直になれると感じピアノの音に心やすらいでいきました。昨日は講座が始まる前からとても心静かな状態があり、最後まで落ち着いた状態でいることができたようにおもいます。こんなにも酷い世界を作ってきてしまった人間の生き方が終焉することは未来に向かうときであることも命のなかではよくわかる感じがありました。問い、がなければ何も生まれない、何も無い。ということに、ドキッとするのが情けない今の状態をみます。一度も問いが生まれなかったわけはなくとも、問うことが過去の遺物になっていました。なぜ止まってしまったのか、行き着くのはPassionです。頭の先から足の先まで思いや意識に囚われる生き方とPassionはあまりに違いすぎ、ここに今までの人間の終焉を感じ、先生がコンサートや講座でずっとPassionを伝えてくださっているとわかります。情、情け、ということも自分の側から思い込む。主体は自分というどこまでも自分かってなあり方は自然とは大きく乖離している気持ち悪さです。芸能で良いと言われているような作品にこのような世界、情に絡んだ世界が多くあり、毒々しい色が放つ世界を感じ、なんとも嫌な感じに汚染されていく場にはときめきなど一つも起こりません。応用コースから帰り、普段あまり寝ていない状態がそのまま出て、晩御飯後は滅多にないことですがそのまま座って寝ていました。開けて今日、清々しい気持ちがあります。胃がまた気持ちが悪かったのもすっかりよくなっている感じです。ここから改めてはじめます。再スタートの応用コースになりました。
狛江、三鷹の高句麗伝説前夜と感じる大きな節目の応用コースをありがとうございます。