高句麗の天を祀る日、過ぎて
京都コンサートホールのコンサートへ参加しました。高句麗の天を祀る日。帰宅しても一番覚えているのは第二部の最後のほうのパイプオルガンの聖なる音色。すべての雑音をも溶かし込み包み込み、大きな光へとひとつになる、あの強く大きな光の球体とずっとともにいられたら、道を踏み外すことも判断を誤ることもなく、常に強く清らかに在れるだろう・・・。第二部の始まりの高句麗らしい音につづき、ずっと高句麗という感じで、帰りはまるで高句麗伝説のあとのような体感でした。潔く、清く、美しい。高麗さんの書き込みを拝読して、高麗さんはコンサートの中でイエスキリストをお感じになったと知りました。自分はわからなかったことをお感じになるお姿に、自分にはなんもわからないということをせめて自覚して清く生きようという決意が固まります。清く生きようと志すことはだれにも可能なことが救いです。
田舎への帰り道 高句麗のパワーを得て、力がいっぱいに湧き上がるのと同時に、26日からの催しと旅の経過に余計な意識はぜんぶ抜けてしまい、どこかヘトヘトになって受講生さんと笑いあう時間はなんともいえず新しいものでした。天と繋がることで、人との繋がり方も、どこかつかみつつあると感じるのです。