零の行方は
【正解はこれで、間違いはないように。】
大人からこう言われる度に
子供の頃から不思議でたまらなかった。
『では、零は、始点はどこですか?』
あの頃
そう問いかけても教えてくれる大人はおらず
【生意気なことをいって大人を困らせる問題児】として扱われていた。
人の数だけ真実はあるものと思う。
物事は一方向だけからは見えない
(見えない世界はいつだって、一瞬で多角的に飛び込んでくる。。今までの世界では、そして先生と高麗さんに出会うまでは、それが心身ともに辛くて仕方なかった)
私にとっての真実が相手にとっての真実とは限らない。
目の前に出された質や問いに対して
自身の感覚で見極めようとする意志を持つことが【考える】ということではないのか?
形通りに鵜呑みにすることではないのでは?
いつだって
私がある種の【気持ち悪さ】を感じるポイントは
感覚を持たない、持とうとしないものばかりだった気がする。
『似てくる』ということと『ただ鵜呑みにして真似る』ということの違い。
暖かいな、心地いいなと感じるものは
いつでも感覚を持っているものだった。
言葉もそうだと感じる。
先生や高麗さんの紡いでくださる音や言葉、心模様に触れる度
どれだけの深淵を
世界の、人類のために
永遠とも思えるような膨大なエネルギーを注いできてくださったのだろう…と
文字通り気の遠くなるような
畏敬の念を覚えます。
今年の三月
中野のソワメームさんで
初めて高麗さんの心模様と
先生の音に触れた時
どこまでも伸びていく
光の螺旋をみました。
『あぁ、ようやく私はここまでたどり着いた』
店長さんに
初来店にも関わらず、かじりつくように
先生と高麗さんのお話を伺い
その時手元には全く資金がなかったにもかかわらず
『この講座に行くために中野に引越して来た』
と
直感していました。
そして6月
導かれるように講座に伺うことができ
運命を解いていただいて
おびただしい人数と一緒に居た
ということを知りました。
歓喜の雄叫びやら、太鼓の音やら、麻雀牌をかき混ぜるような音やら
先祖の解放フェスティバルは
明け方まで続き、うるさくて眠れず
やっと聞こえなくなってきたのは明け方の五時頃…….
(『どうかこの音が先生や高麗さんのところまで聴こえてお休みの妨げになっていませんように…….』との願いも虚しく、高麗さんのお耳には届いていたようで大変申し訳なく…….)
そんなことが起こり
私の長年の不定愁訴をよく知っている
ビジネスパートナーでもある友人に
講座で起こったこと
私が見た事をありのまま話すと
(『ひとりじゃないって素敵な事じゃなかったよ…….』と伝えると昭和歌謡曲好きの友人は爆笑しておりました)
「私も行くね!」と
1秒で受講を決めていました。
次回、彼とその友人が受講することになり
先日のコンサートには3人で伺うことが出来ました。
8月のコンサートにも4名ほどの友人たちと伺わせていただく予定です。
全員、幼少期からある種の生きづらさを抱えていた人たちです。
もちろん彼女たちは
先生や高麗さんにはまだお目にかかってませんし
具体的なことはなにも知りません。
ですが、コンサートに誘うと
日程を伝える前から
全員、即答で『行きます』と言いました。
魂が、いのちが、わかっていて求めているんだな
と感じました。
先生、高麗さん
改めて
私たちのような人間が、生きていける世界を長年に渡り創り続けて来てくださったことに心から感謝致します。
いのちは感じています。
そしていのちの底から【ありがたい】
文字通り有難いと感じております。
私を含め【考える】ということが真実に追いついていくのかどうかは定かではありませんが
私たち自身が幸せに生きていける
先生と高麗さんがいのちをかけて創り続けて下さっている
平和な世界を護っていけるように
【考える】ことをしていきたいと
講座、コンサート、ジェンダー
と、参加させて頂き
そんなことを感じたこのひと月半でした。