雪
抗いようもなく
強い現実に遭遇すると
大きく揺さぶられ、
その通過とともに
わたしの生命に繋がれた未処理、未解決の事柄が一気に吹き出してきます。
それは、もう私自身の人生だけでの未処理ではないことは体感でわかるのですが、
同時にはっきりと分かったことは
私の中には私の縦軸があるのだということ
タブーに触れるようですが
高句麗の報われなかった無念な思いや亡命するしかなかった哀しみは、わたしの中にはありませんでした。
それは通過した者にしかわかりませんので、わたししか分からないことだろうと思います。
しかし、見えたものは
自分に繋がる生命の歩み、痕跡に、
世界と共通のものが見えるという見え方です。
だから、通過した深みの段階までではありますが、心ひとつ、
同じことのように痛みが分かるという感じ方です。
わたし自身に起こる現実の揺さぶりに、
どう選択し、未処理を
次の世代に渡さない渡したくないという気持ちがはっきり芽生えましたが、
不思議と気負いはなく、先生の方へと余計な力みは流れていっているようにも感じます。
この新しい生き方は、
先生の受容の場なくして超えられないことを
身にしみて日々実感しています。
本当にこれまで経た通過の過程は、
人に強いることができないほどの
耐えがたさで、
わたしは自ら向かったから
迎え打てたとも感じているため、
本当に人の内面、人生は代わってあげることができないのだと、やりつくしたあとの無力感と、明らかな真実を認めざるをえない静かな波に揺れています。
先生が、個を個であることを許さなかった女性性の悲しみの縦軸の運命を解放してくださったから、わたし自身、現実に直面しながらも、巻き込まれる生命ではもうないことを、身体感覚で感じています。
とても痛みを伴います。
それは、それぞれのズレを許す、受けいれる“痛み”なのだと受け止めています。
それぞれの生命の歴史の縦軸の中で、
時間を深め、
存在が見せてくれた世界の流れを
神話にはせず、崇めず、固定化もせず
いま自分が直面する関係性の横軸の中で
今日誰とどう話すか
お金をどう扱うか
自分が保てるラインを見極める
対立を燃料にしない存在の在り方を探します。
そして、場に生命を預けるのではなく
表現を場に預ける
それが今の座標で
選んでいる方向性です。
雪が降り、投票という現実を動かす日に水をさすようにも見えますが、同時に、季節が巡ってくれることへ安堵し、なんて白く、余計な汚れ、余計な摩擦を鎮めてくれているようにも感じて、自然のはたらきの美しさに震えます。
本当に感謝でいっぱいです。
