違和せず我が身そのもの
社会の中には、私にとって大きく分けて3種類人間がいます。①信頼できる②特に信頼までは出来ないけど、詐欺もしてこない③詐欺をしてくる、の3種類です。本当は①とばかりお付き合いしていきたいですが、②は、③にあった場合に助けてくれる場合があるので、ちょっと嫌だなと感じるくらいでは、最近は切らないようにしています。何を言いたいのかというと、社会は想像以上に理不尽なこともたくさんあるので、そこで生きていくためには心ある部分の通ずる人を増やしていかないと自分や人を守っていけないということです。昨日のコンサートメッセージの「自分を知る」と「Fit」は奥が深く、すぐにはわからないことや、数日、数カ月、もしかすると数年経ってから「あれは、こういうことだったのか」とわかることもあるかもしれませんが、第一部のメッセージは今は今なりに腑に落ち、第二部のメッセージは、そんな風に生きられたら素敵と感じました。
第一部メッセージの「他人のこと、まわりのこと、社会制度のことなどを受け身にとらえていると「自分を知っている自分」を見失います。」の状態は、世の中の先生とか、偉い人とか、権力のある人にとって都合の良い存在であろうとして、自分の目を閉じ口を塞いだ途端に起こります。するとどんどん頭が働かなくなってきて、眠くなってきます。その場は誰からも怒られず、場の雰囲気も壊れず、権力者からちょっとしたお褒めの言葉などの飴をもらって終わったりします。しかしその場が過ぎてみれば何も自分の仕事は進んでおらず、お金もうやむやになったまま取られっぱなし、結果何も出来ていないということになります。ちょっとした飴では生きてはいけないし、自己実現も出来ないです。かといって、権力側の人にも、「最近なんだかおかしいな」と、これまでの調子ではいかないことを感じ始めていらっしゃると見える方もおられます。煙に巻かれる、という状態には怒りを感じ、悔しくもあり、その感情にばかりひきずられてしまいそうになります。戦っている、という自分に酔ったり、怒りを反芻するのではなく、淡々とやることをやっていくスキルは実に必要です。
第一部の状態があれば、第二部のFitを引き寄せていき、アントレプレヌールサロンでお聞きした「人」ともFitする出会い、関係を得られると感じます。
生きていくために必要な状態を体で教えていただき、ありがとうございます。