走馬灯のように駆け抜けて 次
たくさん色々ありすぎて すこしてんぱって
まとまりのない断片ですが、書き込ませていただきます。
府中会場のパイプオルガンを目の前にした時、中学の時 自分のお小遣いで初めて買った買い物が バッハのパイプオルガン曲、トッカータとフーガニ短調だったと感慨深く見上げました。
ソノシート、というとても安価なものでしたが、うちには芸術らしきものは何もない家庭だったので、自分で初めて「バッハ」のレコードを買ったときの胸の高揚は 人生の中で画期的なことでした。今にして思えば、いだきへたどり着くための始まりのような「こと」でした。バッハに出会う前にキリスト教に出会っています。イエスに触れることがなければ いだきまでこれなかったかもしれません。
今日はコンサート中、13歳前後の出来事や感覚が次々次々走馬灯のように出てきて、ものすごい量で、こんなにいろんなこと詰まっているのと、一人の人間の人生ってものすごいと知りました。凄まじく膨大な事柄の中で育まれ あらゆることの影響を受けまくり 生きてる。一人で生きてるつもりになるなんてとんでもないこと。
今までのその時その時 自分が何をしようとしていたのかもみました。残念ながら全部中途半端に終わってるのも見ました。
そしてコンサート第2部で いだきしん先生との出会いに至りました。それまで出会ったどの人ともちがう、どの事柄ともまったく異質の出会い、先生の存在はまるで違う存在であること どんどんはっきりしてきます。
まるで異質の人が現れて 古い世界が崩れます。
救いです。
実存的変換
これが言葉的に自分はわかってないと、帰りの電車の中でiPadで調べてみると
「がんの実存的変換」というのばかりが出てきて
「ガンになるまでの生き方を全面的に変えて、別の価値観を持って、
新しい生き方をすると言う意味のようです。」と書いてありました。
とにかくガラッと変わってしまうことらしい。
実存が ちゃんと変換していないと、何をどう言っても人に通じない。
コンサートを聴いてわかった気分になれても、実存そのものが変換するというのは
生半可なことではないのは 実感しています。
聴く態度、聴き方がいい加減では いい加減のままです。
実存変換 安易なことではないです。
それでも。それでも。
いのち全体が変容する道。
いのちが うつくしいいのちが つくる社会。
頭がちょっとぼうっとしてきました。
今またウェブサロンを開けると高麗さんの書き込みがあり、今日のことを振り返り考えることができ 大変ありがとうございます。
先生のコンサートは一人一人受け取り方違うのに、すべて美しい宝。
とても不思議で、素晴らしい。
海外の方からのお便りのお話、たいへんうれしく、希望です。
いつも開拓して下さりありがとうございます。
みずみずしく 奥深く 微細な微細な うつくしい 透明な音に触れ 大変幸せでした。
帰りの夜空の星が大変美しかったです。
ありがとうございます。
また明日に向かって。