言霊
書込みを何度かスキップしてしまいましたが、府中の森コンサート、三鷹応用コースでコンサートのメッセージが深まりました。日本神話の改ざんが現代に繋がっていることには驚きでした。饒速日命の名前が語られると何故か身体が熱くなります。俗な表現で申し訳ないのですが、コンサート会場に流れた饒速日命の御名前で、最初に浮かんだのはジブリの映画でした。真実を隠されたから本当の自分の名前を隠されたと納得していました。古代史の中で「饒速日命」の存在がはっきりしなかったが故に、真実が何かということがわからなくなった日本の長い長い年月を考えました。饒速日命が表現されたピアノは丁寧で倍音が美しく心に今も在ります。古代の人が今の私達に伝えようとした万葉集である事も初めて聞く事実でした。学生の頃は、先生が言われるように万葉集だけを読み古事記や日本書紀を全く読んでいませんでした、というよりも字面は追えるのですが、たくさんの神様の名前と神話である事に違和感を覚え、読めていませんでした。コンサートメッセージで柿本人麻呂の歌に何十年ぶりに触れ、言葉にできない懐かしさが蘇りました。万葉のふるさとをイダキのコンサートがきっかけで初めて訪ねた時、飛鳥寺から眺めた風景は、かつての人が生活しているかのような光景に私でさえわかったのを覚えています。数々の高句麗伝説コンサートで本当の歴史を経験し、かつて学んだ歴史と符号し身体でわかる経験を何度もしています。
言葉はいのちであり、言霊があること、言葉の力は想像以上なのでしょう。今も日本語には秘めたる力がある事に希望です。コンサートで表現されたピアノはまるで美しい日本語で語りかけているかのように聴こえ、そのままの言葉を解りたいと願いました。
参加できなかった府中の森コンサートの2日目では、卑怯は短命に終わる事をお聴きして、これまでなかった強いメッセージ心しました。卑怯とは「心が弱く、物事にれること。勇気のないこと。臆病。心だてのいやしいこと、とありました。卑怯な生き方は一番嫌いとする生き方ですが、自分の中にあるものが時に卑怯な存在を引き寄せている事を考えると、結局は全て自分と気がつきます。小さな子供を目の前にして、正々堂々ではないどこか逃げるような卑怯な生き方はしない、と新たにしました。コンサートに参加するだけで自分だけは大丈夫とイダキに依存するのではなく、自分がこれからの人生でどう生きるのか、人を助けるのか、人間とは、、と日々考えるコンサート、応用コースでした.本日はアントレプレヌールサロンです。世界や日本の今、仕事をする上で外すことができない貴重なアントレプレヌールサロンを、どうぞよろしくお願いします。ありがとうございます。