表現
早々に昨日のビデオ講演会を配信くださり、また書き込みも誠にありがとうございます。
お伝えくださっていることも然り、11月1日の高句麗伝説は、只ならないことを生命で予感しています。
一昨日と昨日、店頭販売をしている際に9月、10月とそれぞれに仙台コンサートに参加された女性の方々にお会いしました。
10月に参加されたお一人の方は、”一部で苦しい箇所があり、途中席を立とうと思ったほどだった。けれどそのうち光のようなものを感じて楽になっていった。
いったいあれはなんだったのか?”
とご自身の経験を話され、表現されたのちに、普段から”苦しい”と我慢して生きていることに気がつかれ、笑い出しました。
9月のコンサートに参加された女性の方は、コンサートの一部で内蔵の痛みを感じ、この痛みはなんだろうと考え、休憩時にあらためてコンサートのパンフレットを読んで、
“生命の働きに反している生き方は痛み苦しみ、違和感と自覚し、演奏をお聞きすることで解放されていくことも感じることができます”(一部を抜粋させていただき失礼いたします。)
との高麗さんの文章で、身に起こっていることが腑に落ちたとお伝えくださいました。
いだき講座を受講したばかりの頃、どのように人にコンサートを伝えてよいかわからないと、恐れ多くも先生にお聞きしてしまったことがありました。その際、チラシの文章をちゃんと読んだのか?と
問われはっとし、そのお言葉はいまも心にありましたが、本当の意味で読めておらず、伝えてなかったことを自覚しました。
お会いしたお二人とも、せっかくのコンサートの経験を、経験したままで表現する機会がなかったことに、申し訳なく感じました。
一人一人の内面の変化からどこからでも世界平和を成していける大切な生命であること、先生のはたらき、コンサートを開催してくださっている意味を、自分自身がきちんと伝えられるよう、日々表して参ります。
いつもありがとうございます。