表現
応用コースにて感じたことを表現せずには東北へ行けず、書かせていただきます。感覚と言っても。。。と先生は何度もおっしゃいました。おおいなる存在とウエブサロンに書いていても。。。ともおっしゃいました。私はおおいなる存在とよく表現させていただいています。目に見えない世界が見え、なんでも図形で見えることを言葉にしています。いだきを始めて、間もない頃と記憶していますが、人の運命を調べたり、霊を呼ぶことが苦痛であった時、疲れ果てて、自分の自覚では不貞腐れて横になっていました。すると宇宙の果てと表現するよりない無限な世界から、「やるのかやらないのか決めてくれ。代わりはいる。」と表現する図形が見え、声と表現するよりない、ある状態が聞こえました。私は瞬時に、いだき講座は自分がやりたいとかやりたくないという次元の仕事ではなく、人類史が掛かっている歴史的な大仕事であると自覚しました。そしてやめても、行き場はないこともその存在に触れた時に生命でわかったのです。いだきのことは死んでも終わらず、生きている時に半端にしたら死んでも行き場がないということを知ったのです。生きる場がない苦しみは身にしみていますが、死んでも行き場はないとは地獄よりも苦しいとわかり、生きるということは人間とし生きることを貫くよりないと生命で知ったのです。同時に、生まれつきの運命を解放され、人間とは何かの答えを見出した先生の存在は人類上初めてであり、今後も現れないと瞬時にわかったのです。人類はこの機会を逃したら、2度と生き延びていける道を見出すことはない、と見え、自分の生まれた時代は、人類史が変わる時と身震いし、いだきを離れても、たとえ死んでも、答えはなく、ここで生きるよりないことも生命でわかりました。
東日本大震災が起こった時に東北の復興なくして日本の未来はないと見え、ここに人生賭けると本音が生まれた瞬間にもおおいなる存在と表現するよりない存在に出会いました。自分の内では錯覚でも幻聴でもなく、真であるとは、生命でわかります。
北海道の大地震が起こる前の早朝の茨城を震源地とする地震の時に現れた存在も、私にはおおいなる存在と表現するよりない存在でした。図形と音から私はおおいなる存在と表現していますが、人生の要の時に現れます。が、私はおおいなる存在と表現しながらも、誰なのかとも時々表現します。人間ではないので、誰とは言えないのですが、ある時の先生のコンサートの時に「くにとこたちの尊」とのメッセージの演奏にて出会った神様は、子供の頃からずっと共に在り、守ってくれていた大きな木と表現してきた存在でした。国創りの神と、先生の演奏とメッセージをお聞きし、わかりました。
自分ではおおいなる存在と表現するよりない存在と感じ、そのように表現させていただいてきましたが、応用コースにての先生のお言葉から、考え続けています。自分の内では根拠なく表現しているつもりではなく、人生変わる程の衝撃を受ける出会いであり、図形を言葉にするとおおいなる存在と表現するよりなく、今までは表現させていただきました。お告げという表現もよくさせていただきますが、今までは気のせいとし片付けてしまい私が実行しないでいると先生からおっしゃっていただくことがあり、お告げは人類の未来を切りひらいていくメッセージと受け止めています。私は「高句麗伝説」の時に、先生の演奏から見える図形を言葉にさせていただいています。おおいなる存在、はるか彼方、神という言葉を使いますが、図形で見えている状態を表現しています。
それこそ感覚的には、私がよく使わせていただく、おおいなる存在という表現については、整理しここで表現させていただかないと先へいけないと感じ、書き込みさせていただきました。ありがとうございます。