自由
昨日、主人の弟が亡くなってしまいましたが、今日のコンサートに参加が叶い、有り難いばかりです。葬儀のことや、諸々たくさんの問題があり、ひとりの生命、命が亡くなったという事実は大きく、いろいろな思いが交差し、頭の中はぱんぱん状態であったので、1部はとちゅう頭が大きくガクンと揺れ、はっとし、その瞬間から先生のピアノの音を感じられるようになりましたがもう後半になっていました。
2部は状態もまったく変わりました。
気がつくと自由を経験していました。子どもの頃から目指すという生き方を覚えたのか、自然にそうなったのか、わかりませんが、ずっと目指して生きて来たことを感じます。光のなかで経験する自由は、遊んでいる感覚がしました。遊びは自由のなかでこそでき、遊べる自由は光でした。なんにも目指さなく光満ちるたのしさは遊んでいる感覚、体感なのです。心ぜんぶで自由を感じました。遊びより目指すことをよろこびとし、目指すことは遊びでもあると生きて来た気がします。先生のピアノのなかで体感する自由はほんとうの遊びでした。自由だから遊べる遊びというのでしょうか、、はじめて遊びという自由を知りました。
そして高句麗を感じる大地の音、三鷹光のホールに一陣の風の音をキャッチしました。
自由の風に吹かれ、今日のコンサートを経験させていただけたこと、すべてに有難うございます。