脱ぐ
昨日の狛江の高句麗伝説の衝撃が今も続いています。実は本番が始まる寸前まで探し物をして頭は落ち着きのない状態でした。交通系のカードは関西と東京では違っていてチャージしたのはいいけれどそれをどこに直したか、パニックになっていました。元々の性格もありますが後遺症で目が見えにくい、手が効きにくいということで少しのことでもパニックになってしまうのです。高句麗伝説を前に浮き彫りになったのでしょうか。色々人に頼ったりしがちですし、不思議と人が表れて助けてくれるのです。が、昨日は全く一人になりました。こんな小さなことですが私にとっては自律という大切なことなのです。バスターミナルも4列シートも何するものぞと。そんなことは人に行ってもわかってはもらえません。帰ってきてから財布を整理しました。カードが何枚あっても、目が見えなくても平気です。これから世界を変えていこうとされている動きの時につまらないことで自分を縛ってしまうのはやめます。今日は循環器内科に行きましたが、血圧は寝ていないのにもかかわらず安定していました。まだ仕事がありますが、入力できるから目が見えるんじゃないのと言われそうですが、字を書くのにも時間がかかるし以前と全く違う状態を火事場の馬鹿力で何とかしているというのが本当のところです。今年はそんなことを言っていたら滅んでしまいそうですので、コンサートや高句麗伝説でどんどん浮き彫りになっては脱いでいけるようになります。