聖なる流れ
高知へお伺いしました。救いと感じる音の連続であるコンサートでした。ありがとうございます。尊いコンサートメッセージをウェブサロンに書いていただきありがとうございます。書いていただいているので、読ませていただき、言葉を確認させていただきながら書き込みをさせていただけます。でももし無かったら無かったで、記憶の中の言葉とコンサートの体感で書き込みをさせていただきますので、私の場合はですが、もしお辛いようでしたらご無理をされずとも、大丈夫です。
「聖なる空間」とどんどん離れていく人々の姿は「悲哀」と表現されるほど、悲しく哀れなことであるのかと、数日を振り返りました。世の中で良いこととされていることをするために聖なる空間と離れていっている自分を感じました。これはもはや頭ではなく、いだきで学んだ「体でわかる」を駆使して理解していくよりありません。
高知のコンサートホールは人がたくさんで、とても活気を感じ、懐かしさも感じました。こんなに知らないところへ来ているのに、受講生さんやスタッフさんとお会いできることもなんとも嬉しいことでした。町を歩いていると、川が近く水を感じるせいか、港町青森市と似ていると感じました。川の水の流れの浄化力を、具体的な数値は忘れてしまったのですが、その凄さを教えていただいたのを思い出しました。次々と流れて動いているからこその浄化力で、高麗さんの詩を以前監督が枝豆の食べ方に例えていらした表現にたいへんピンときたのとも重なり、私もつぎつぎと行きます。
やっていないのに上手くいくと、変な人間になってしまうという高麗さんのビデオ講演会の表現には、まことに・・・と頭を下げます。とてもありがたいことです。
公の場でどう書き込みをさせていただけば適切なのか考えないといけない内容です。これまで自分が「こう生きないといけない」と信じていたこと、それは特に嬉しい内容ではないのですが、罰としてなのか、自分をダメな人間だと思っているからなのか、マイナスなこととして、「こう生きないといけないんだ」と信じていたことを、もうやらなくてもいいんだよと声のするような出来事が続きました。これは自分には奇跡的なことです。ジェンダー絡みなこともあり、なかなかそのまま表現させていただき辛いのが心苦しいのですが、一言でいえばお互いに奴隷化し、お互いに奴隷となっていく在り方を超えたという感じです。もっとえぐみのある言葉で書けたら伝わりやすいかもしれませんがそうもいきません。ありがとうございます。