繋がる生命
最近、葬儀に行くことが増えてきました。昨日は音楽葬でした。母の弟の奥様の葬儀でしたが、母の弟は既に亡くなっています。私にとっては叔父となりますが、奥様にも、子供の頃は夏休みになど叔父の家に泊まりに行ったりして交流はありましたが、叔父が亡くなってからはお会いすることもなかったのです。生前好きだったというシャンソンや西部劇のテーマが、弦楽器、フルート、オルガンの生演奏で奏でられるなか、時を飛び越え、懐かしさと、やさしい思い出が蘇りました。ここのところ、近くも遠くも親戚筋にあたる葬儀が多くなりました。知的な方でしたが、認知症になり、晩年は戦争のことばかり言うようになったとお聴きしました。製薬会社で働いていたときに爆撃にあい、同僚が目の前で倒れ、数秒の違いで自分が死んだかもしれなく、そして亡くなった同僚のことを会社は放って置いたと、晩年はそのことを本にして世間に知らせなければと認知症になってからはずっと言い続けていたと聴きました。ほとんどのことを忘れて行くなか、戦争のことだけが大きく蘇って行くようで、絶対に戦争はだめと言い続けていたそうです。認知症になって、本当のことを言えるようになったのかも知れません。お別れの時、意思あるお顔にお会いできました。死ということを先に逝く人がその生き方を持って語ってくれます。葬儀という形式ではなく、喪主にあたる息子、娘さんも、亡くなったお母さんの言葉を代弁するかのように、自分の言葉で、今の世の中の流れがどこに向かっているのか、告別式の喪主の挨拶のときに話されていて、葬儀の場でなければすれ違っても誰であるのかわかるはずもない親戚のことをわかり、今日は胃の働きがよくなっているようです。