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経験したこともない幸せ


宗教という言葉を使うときに、たいていの私の周りの日本人はそれを「宗教法人である」とか「信仰の対象がある」とかいう意味では使っていないことに少し前から薄々気付き始めています。「宗教」という言葉を使うときの人の感じを言い換えると、「直視すべきことから逃避するために利用するもの」「自分のすべきことから目を逸らすために使う得体のしれないもの」「さらにそれを、(幹部としてなど)手柄を立てるために人にも押し付けるもの」と翻訳されるように感じ、それらが更に転じて「自分を見失うもの」「お金を吸い上げられて不幸になるもの」となり、総じて漠然と「宗教」と言っている、そんなことが多いと感じます。つまり自分の中に正直になったときに、それらが微塵でもあると、当たり前に「いだきは宗教である」と言われてしまったりする可能性がその方向から出てくる、つまり汚してしまうことになるんだと・・・。それらを体内から一切なくして幸せに生きていくことを真剣に考えるこのごろです。

京都事務所で、「親孝行できる自分になる」と話をさせていただきました。親の言うことをただ聞くのが親孝行ではなくて、経験したこともない幸せを経験してもらうことが真の孝行、という内容をお聞きして、それを出来る自分へと変わることを、当然ですがお聞きしたからには、おのずと考えます。

地元へ戻り通った小・中学校の時限を告げる鐘の音がすると、ビクッと固まってしまう自分がいました。言葉にすると、おのずと体ではなく頭で「こうあるべき」「その次は、そうするべき」「さらにその先は、こう思われるために、こうするべき」と、自分を固めていくように思考だけが先走るのです。現在身に着けつつある体で感じて共感していく新しい生き方と、過去に身に着けてきた在り方が大きく違うことをあらためて感じる出来事でした。

以前東北センターで飛蚊症の父の目のことをご相談させていただき、サプリをご丁寧に教えていただきました。その父親が次は目の手術をするそうで、検査に行っています。「加齢だ」「年のせいだ」というお医者さんは、当たり前にいらっしゃいますが、良くないと伝えてあります。自分ももっとしっかりとしていきます。ありがとうございます。

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