私の神さま
奈良の高句麗伝説コンサートをありがとうございました。
奈良では、初めて斑鳩の地を訪れ、法隆寺を拝観いたしました。
奈良のコンサートではやはり、胸の奥から高句麗が滅亡した時の悲しみが湧き流れ、涙が止めどなく流れ落ちました。
私の中に、これ程の悲しみが積もっていたことが、溢れ出る涙でわかりました。
昨日の朝、宮城の受講生さんの車に乗せてもらい、あっという間に仙台に戻って参りました。楽しい時間の後のためか、寂しい気持ちで一日を過ごしました。
本日は、迎賓館での高句麗伝説をオンデマンドで視聴し、再び、日本の地で天を地に表す様に生きながら、王をお迎えすることを心にいた時、風の便りに高句麗が滅亡した事を知り、命全身で泣き崩れた高麗人の悲しみが溢れて溢れて、涙がボロボロこぼれ落ちました。
八坂の塔の美しさが、高句麗の都の象徴のように感じ、あの美しい国が無くなってしまったのだと思うことが苦しく、切なく、泣いて泣きました。
と、同時に、東明王様が、いずれの時に日本に現れる、真の、人間が生きられる光を予知していらっしゃることもわかり、命の芯には希望の光も在りました。
それでも、心は不安な子どもの気持ちのままで、不安で泣き続けました。
そして泣きながら気付きました。
私が不安なのは、自分の神さまと切り離されているからだ、と。
私が生きる時、言葉を発する時、神さまから始まり、神さまと一つに生きるのが、生命なのだとわかりました。
「神さま」と言葉にしてしまうと、気付いた時の一体感が失われて、別れ、疎外の状態になるのも感じます。けれども、言葉にすると、私の神さまなのです。
命の拠り所であり、土台であり、根拠である基なる存在。外から教えられるのではなく、自分の内にある存在。
古代の人間は、自然の中にある生命を、自らの魂の象徴、トーテムとして認識し、一つに生きる文化があったと、曖昧に知っておりますが、私には、自分の言葉の根拠になる神さまと、ちゃんと一つになる必要があると感じました。
すごいことがわかりました。
ありがとうございます。
高橋 由珠