私と多くの日本人の状態
正直言葉に尽くせないほどに沢山のことを学んだと感じた1日でした。『存在論』は「不安が強い人は死の恐怖はない」とおっしゃる先生の言葉から始まりました。その状態は長年の自分です。そして世の中におけるそういった、大きくいえば「存在から外れた」状態は学校教育の成れの果てというのも本当にその通りと感じました。不安なときは「死にたい」等々と感じ何も考えられなくなります。次の時間の『死について』でご質問者様に先生が「わざわざ恐怖をつくりながら生きている」という答えをされていたと記憶していますが、私もまるで義務のように自分からそういった状態に陥る癖があり、なぜかと考えました。「罪悪感」という言葉とともに心に空いた大穴の存在を、ビデオ講演会をお聴きしながらわかりました。正確にはビデオ講演会をお聴きしながら心の大穴に気付き、お聴きしながら自覚したことでその大穴に再生の薄皮が張って、東北センターからの帰り道大きな橋を渡って日の隠れた北上川の水面を視界に入れながら「罪悪感」という言葉が浮かびました。その大穴は私の心のハンカチに空いていて、仮にいだきに来られていない方であっても豊かに食事を創ることが出来る方には空いておらず、そういった方たちのハンカチは絹やコットン、カシミヤなど愛をもってつくられた素材でできています。私の大穴があいたハンカチ(ハンカチといってもスカーフくらい大きいものです)も、素材は絹ですが真ん中にものすごく大きな穴が開いて穴の周りはたばこの火を押し付けたかのように焦げたりして汚くなっていました。これを無理やり小さくたたんで、穴の開いていない面を必死で表に出して、「拭けますよ!」とアピールして生きています。その穴に気付くとともに、ピアスホールが埋まるように薄皮が張り、少しずつ再生していくことを感じました。そしてどうしてそんなハンカチになってしまったか・・・という問いには、川面と暗い空に大きく「罪悪感」と記されました。たぶん小学校時代に自分が恵まれて生きていると感じ、罪悪感が大きくあり、不幸にならなければいけない(この不幸は「存在から外れて生きる」という意味です。私は存在から外れたら生きていけない、ということはこれまでなかったので。あまり苦しまずそこそこで生きて欲しいと願っていたであろう親のことを考えて、「存在から外れたら生きていけない」という高尚な状態も望みませんでしたし、実際私のいのちはそうはなりませんでした。)と頑張ったことなどと関係していると思います。この「罪悪感と心の大穴」は記事のタイトルにしたいくらいのフレーズです。
「自分のことで精いっぱい」という状態を奇しくも感じます。多くの日本人はこのようだとも感じます。しかし穴が開いたままではどんなに人のために生きようとしても無理だと思います。穴が開いている状態は常に「自分が責められている」と感じやすいです。穴が開いていない状態、また穴の開いたことのない状態からは、全く「どうしてそうなるの?」想像しにくいものだと思います。これはいわゆる苦労をしていれば開いているというものでもなく、外から見たら苦労をしてきたと見える方でも、現存在から外れることをせずにやってきた方には開いておらず、外から見たらうまくやっているようにみえても、現存在から外れることをまるで母親の愛に応えるように、息を吸うように、生きるために義務や責任のように律儀に実行してきた人には大きく開いているのではないかと推測しています。外から見たら上手くいっているように見えて、実際に現存在からそんなに離れていない方にももちろん開いていません。穴の開いた状態のままどんなに外から正論を浴びてもおそらく、穴を隠して折りたたんだ残りの面で必死に「拭けている、ハンカチとして機能している」とパフォーマンスをするだけになるので、真の愛によった行動は出来ないでしょう。穴をふさぐことが先決ですが、私の大穴もまだ薄膜が張って少しずつ再生している状態です。
先生の余計なものがなくなり美しいものをわかっていった過程のお話に、講座を受けた自分も「精神」、むいてむいて余計なものを無くして変われる(かもしれない)と希望が湧きます。
『死について』では、世界の話やユダヤ人の話、レバノンの宗教やNPO高麗との関りの話などをお聞きしました。何派にも加担せずに、という在り方のまま救急車や物資を提供するお姿に、「貫けばやれる」という真をみます。「じょっぱりの成功例」で自分には過去も今も大きくは経験のないものです。でも、物凄く小さな成功は近年経験していてゼロは何とか脱したので、今後は大きくしていけるように考えます。日本にいながらすごく賢くあらねばならないこと、下手するとやってはいけないことをやっていることになってしまうこと・・・。日本人なんて肝っ玉が小さくて何も出来ない、自分第一、という先生の言葉にも、「自分はその通りだ」と感じました。何かを言われる面倒を避けたいとか突っかかってこられたくない、だから極力なにもわからない振りをしていたいし、こっち見ないでください、あっちの方が目立つので小言はあっち見て言ってててください、私はピエロですよ・・・というような、人様を小馬鹿にしたような失礼な気持ちが一番大きいです。これもまた、多くの目立ちたくない日本人がそのような状態であるのではないでしょうか。
存在論、死についてを通して、「関係が成長する」というお話がありました。これは身をもってわかりました。19日の語る会、講演会、ビデオ講演会の1日でも、「自分の内的環境が外的環境をつくる」ことをさらに深くわかりました。その続きというか答えのように、19日と20日で、全く異なる状態への変化が外的環境にありました。現実に答えがあると「おぉ・・・」となります。
すみません、長くなりましたので一度区切って明日(すでに今日ですが)の支度をします。
また続きを書き込みさせていただくかもしれません。
先生、高麗さん、読んで下さった方、ありがとうございます。