神前に座す
二日目の京都高句麗伝説は、四月二十二日と別もので在ったという衝撃の波が、静かに沸々と迫り続ける夜です。高句麗伝説での経験を語る度に、遥かな源への旅が今に蘇る感動と共にこの世での作業は中断されざるを得ません。
音と詩に顕り初めて出会う存在の清清しい体感と空気は祓い清められた境内のようでした。今の日本の現実にはどこにも無いであろう古の神を迎える空間です。これが日本なら、これが人間なら、今の日本は汚れ切ってしまっていることを認識しました。どんな文化としても目に見える形で残されていない精神が先生と高麗さんの命に蘇り、表現まで成されたことを僅かな人間と全土の土地が高句麗伝説に依り共に出来ましたこと誠に有難いです。日本から抜き取られたのはこの精神だと体感します。人間であること女であること男であること、何の境もなく神がある静かなよろこびです。その清清しい境のない命を体感した時、先生の存在ともひとつと分かり、東北の澄んだ空気や琵琶湖の湖底の国、ロシアの高句麗伝説での最後の音までも一つに蘇り重なります。
しとやかで静かな日本の空気が生まれ充ち始め、世界中の精神と通じ、信じられないほどの深淵な生命である豊かさがこの命に宿るのです。御声の生まれる瞬間、終わらない音の連なり、神を招び神を顕す太鼓やギターやシンセサイザーの音が、現代に生きている人だけでない全ての人間生命の生きる空間を表してくださり、大いなる存在の真の「意志」を知ります。あれほど沢山の音の中にいて、行き着く先はその膨大な情報の記憶ではなく、何もなくなっていくことには禊のような体感でありました。
戻ることのない進化が全体の現実であることを隣の人とも同じに経験させていただきました。
京都二日間の異質で最高の時を有難うございました。
五月の高麗の地に皆で向かいます。