神と在るいのち
京都高句麗伝説の止まることのない一瞬一瞬の表現に、私たちの命が対象化されたり役割や時間に区切られていない、留まりのない生命体であることを取り戻させていただきました。この瞬間に生まれる、自分の声を表すことが恐怖でない初めての経験は喜びも超えています。常に現象として留めて観察し論理に則って対処されてきた生命と光の悲しみは計り知れません。いだきしん先生と高麗さんが最大限に表現をされていることそのものが、人間の悲しい歴史を超えて神に寄り添う新たな歴史の第一歩なのだと分かります。
高麗さんの御声が100%表現される時の音は、先生にしか出来ない調整から成る瞬間の出来事だとその時を共にできた時の感動も計り知れません。高麗さんの光語を聴くことなくして音はなく、音がなくしては詩の言葉が存在しないという、この豊かな関係性が現る舞台の最大の表現の場に参加できて感謝よりありません。
神鳴りのような太鼓の音に、ギターの音の行方は電気ショックのように指先まで響き、何度でも神代に引き戻されるのです。先生のコンサートにて表現されてきた存在は別々の存在ではなく、今日は既にひとつの存在となってひとつの存在の側面が現れ出ているものだという体感が拡がりました。宇宙の生まれる前から在る光に溶け込むように神も故人も人間も今全く新しい時を生きていける豊かさと喜びが何という言葉でも追いつきません。
留まることのない神と生命と光語の交流の瞬間瞬間を言葉にできるとしたら、「いだき」でした。いだきが現れて、愛が表現され、過去に繫ぎ止められていた嘗ての存在ではないことが果てしなく広がる波紋となり高らかに現れました。
今この時という一言を経験するための壮大な仕組みを築いてくださり、誠に有難うございます。