真上から
光が光であるが故にこの地上では自ずと影が出来てしまう。光が強ければ強いほど影も濃い。圧倒的な正しさの前には、己の未熟なり半端なり、またそういった単純な言葉では割り切れない模糊とした存在を受け容れられずに、自罰なり他罰に向かってしまう、そういう者が現れてしまうのがこれまでの社会なんだと思う。こういうところを掬っていくのって結局アートであると結論づける。あるときは芸術として姿を現し、あるときはラポールを築いて作り上げられるあの意味のある共通空間でもあるアートだ。光は光でなければ生きていかれないので、光を消してはいけない。影ができるために光を抑えるというのは、能力を最大限に発揮していないことになるから、よろしくない。ではそこでできてしまう影は。真上から光を当てれば影はできない。真上から当て続ければ良いのだろうか。地上から垂直に背筋を延ばした頭の延長線上の真上。そのとき己を影として見る隙はない。確かにそうかもしれないけど、実際そんな単純なものか?正しさの船に加担する人々の波で船が右に揺れ、傾き、正しさが左に動けば人々の波もまた左に揺れ、傾き、船酔いを催す者も出てくるだろう。そうなれば、光を放つ人を転ばせに走る者も出てくるだろう。それらの理由や行動は時に無自覚だ。愚かな我々には自覚するより道はなく、そこの救いには人間なら誰でも力を出しうるアートがあるけど、更にここで、いだきしん先生という、これまでには現れなかった存在がいらっしゃるのが筆舌に尽くしがたいところである。筆舌に尽くしがたいところを音にされている。この横軸と縦軸に遭遇した者の一つの粒としての存在は愛を学ぶ一粒であり誰しもその感受性と感性で道を切り開く切符を手にしている。筆舌に尽くしがたい、を一粒なりに表現すべく自らにあてがわれた内面を感ずるとき、胸に手を当て目を瞑れば、いだきで触れた新しい世界と人間に共通する優しさや愛の温もりが息を吹き返す。