真の救済
シリアの高句麗伝説上映会から、連続して、海外の高句麗伝説コンサートの上映会を有難うございました。
始めのシリア上映会には、参加でき、後から要と知り、安堵しました。
レバノンとアルメニアの上映会には、今の経済状態ではと諦めていました。気持ちが暗く、晴れないでいたら、最近聞いたこともない凄い雷が鳴り響き、この天候が、私には、何故か「出遅れた」と、告げられているように感じ、焦りました。
レバノンと聞くと、当時は、とても怖い国というイメージがありました。行ってみると、お洒落な、人の気持ちを察し動きが速いスマートな方が多いと感じる、内面性豊かなお国でした。中東は、歴史的にずっと争いが続く怖い国々というイメージは、作られたものと知りました。生命のうちでは、凄いコンサートと感じても、頭が理解できず、当時の自分は、レバノンの方々が総立ちになって、涙ながらに拍手されることの意味がわかりませんでした。翌日のレバノンの新聞のトップ記事になるほどのコンサートを日本人が開催したのにもかかわらず、日本ではニュースにもならないことは、日本人にとっては、悲しい事と感じます。
上映会があった事で、思い出せました。有難うございます。
北京のコンサートでは、高句麗伝説を歴史的体験としてリアルに感じ、場所によりこれほど違う事に驚きました。
アゼルバイジャンでは、当時は、慰霊塔に、故郷広島の原爆慰霊碑と共通する悲しみを感じました。永遠に燃え続ける炎に、人間として、求める永遠性、精神的支柱を感じました。高麗さんの表現から、古い世界は、終わっていたのかと、驚きました。自分の感じたことは、古い世界だったと感じました。
グルジアで開催されたコンサートには、行きたい気持ちがあったけど、当時は子供の気持ちを考え、諦めました。後に高麗さんの表現をお聞きして、私には必要だったという気がしてならず、以前にも奈良で開催された上映会に参加させていただきましたが、まだ必要という気持ちから参加させていただきました。何か自分の中にある、支配とか管理するような嫌なものをなくしてしまいたい、綺麗になりたい気持ちがあります。この世で、解決していけるところはここしかないと感じ、参加したくてならない自分に気づきます。
テヘランの高句麗伝説コンサートは、透明感、精神的美しさを感じました。初めてイランでの先生のソロコンサートを広島県で拝見した時、これはイランと日本の真の平和な繋がりになり、世界的にも平和が広がると感じ、日本人がされている事に興奮しました。日本ではニュースにならない事に、初めて疑問を持った経験だった事を思い出しました。
今の自分の状態ではいけない事は、わかります。今日、明日と高句麗伝説コンサートを開催していただける事、誠に有難うございます。
参加できる幸運に感謝致します。
よろしくお願い申し上げます。