真の人間とし生きる時
人間は人は騙せても、生命には偽れないこと、真に生きる存在を裏切ってはならないことを今程身にしみわかることはありません。私にとっては高麗神社、若光王墓もおそろしいところであります。幼い頃より父に連れられ、行った記憶は今も尚鮮明に残っています。神社へと向かう道も1300年の重みを感じ、いつも涙を流していました。暗く、重い空気にいつも倒れそうになり、偏頭痛に苦しみました。父は関係者より入れない所に通されますので、私も一緒に入っていきました。その時飲んだお茶の味は今も覚えています。なんとも表現し難い暗い重い空気と同じ味でした。先生にお会いする前から友人と高麗の郷に行こうとすると、道中大げんかとなり、縁が切れてしまうのです。付き合ってはいけない人と、共に生きる人が決まっているように、高麗神社まで行き着くことはなく、関係が切れてしまいます。
先生が初めて訪ねてくださり、闇に覆われた歴史が紐解かれ、先生につながり歴史の闇、影が解放されていきました。暗く重い空気は明るく未来を感じる開放感に満ち、ひなびた古い神社は一躍脚光をあびるようになり、立派な神社となりました。天皇、皇后両陛下にまでご参拝いただく巡りとなるとは驚くよりありません。若光王の墓は、聖地と感じています。ここで嘘はつけず、誤魔化し生きたら、生命が危ないことを私の生命はよくわかっています。そのことをわかりもせずに、この地を利用したのだということが見えた時、人間は聖なる世界を軽々しく使ったり、わかることもなく、自分勝手に捉えたら、生命まで落とすのだということがよく見えました。同時に、先生はいつも生命賭けて人の生命と一体となり生きてくださり、生命助けてくださっています。それ以外に何の為に先生はお話をしてくださっているのでしょう。わからないとは言わせないというのが聖なる世界からすれば、筋が通っているのです。愚かな人間は、自分がわからなければ、先生のせいにし、わからない状態が自分の生命を痛めているのに、苦しいと訴えます。最近はこのカラクリが素通しとなり見え、いい加減人間は気づき、変わっていかねば生きていけなくなると見えます。生命まで落としかねないのだと見えます。その恐れを知る時と考えます。
高麗神社、若光王墓は私にとって畏れを感じる場です。何もかもが素通しとなり、偽り、誤魔化しなどは通用しない場であります。この世に合わせ、騙されやすい傾向にある自分もいい加減目を覚まし、いつまでも悪いことに加担することはやめないと生命落とすということを高麗神社、若光王墓に行った後からわかる現象が続いています。これからは騙されてはいけないと肝に命じます。生命賭け生命助けてくださる先生の足を引っ張ることや時間を使うことは許されないということを生命をもってわかります。いだきに出会い、役に立ちたいと言葉にしたなら、やらなければいけないのです。ボランテイアも自分で志願したのですから、コンサートチケットを売らなければいけないのです。気持ちがあってもやれないは嘘つきであるということを今この時になると歴然と見えています。やると言ったことはやりきることが人間であります。やれないのは嘘つきであり裏切り者となってしまいます。苦しいのは自分が嘘をつき、生命偽っているからです。私もいだきをさせていただいたのですから、平和を実現できるまでやり続けます。亡き母は、私のことを怒ることなどなく、いつも生きていけるためにと一生懸命でした。その母が一度だけ、私に強く言い切ったことがあります。いだきを始めたのだから、やめてはいけないと言い放ったのです。「はじめたんだから辞めたらダメだよ。変わり者で終わってしまうよ。」母の声と共にこの言葉がずっとあり続けます。真のことであります。今この時は役に立ちたい気持ちで共にはたらいたりボランテアを志願しているのですから役に立っていなければ嘘つきなのです。嘘はバレると宣言された昨年の元旦の対談にて、胸がドッキという音が聞こえる程、驚きました。自分では嘘をつく気は全くありませんが、生命に偽っていることは嘘であると日に日に気づき、改善を重ね、一年8ヶ月経った今、やりたい気持ちでやりますと言ったことをやれるように生き、やりきっていかねば嘘つきとなるということが生命をもってわかります。人の状態を見、我が身を正します。エチオピアの支援活動を始めた時、「始めたことは息をしている限りやり続ける」と先生からきっぱりとおっしゃっていただきました。死ぬまでやり続ける活動であると生命に刻みました。
デイーサービスいのちに初めて先生がお越しくださり、貴重な1日を過ごしました。物事やりながら成長していく動きが大切と学びました。「いのち」という名前がついているデイーサービスです。生命に偽ってはいけないと心身を正します。9月1日のオープンが楽しみになってきました。ありがとうございます。