疎外からの脱出
昨夜は、胸の内に新しい生き物が入ったように冴え渡り、とても眠れる状態ではありませんでした。夜遅くに皆で魂コーヒーを飲んだ故かと考えましたが、そうでないことは生命が教えてくれています。胸の内にドキドキと動くものがあり、胸に手を当てベットに横になっていました。共にコーヒーを飲んだスタッフも冴えて冴えてとても眠れるものではなかったと話していました。とにかく、先生のコンサートの経験はすごいとより表現できずに歯がゆいですが、胸の内が冴え渡り、新しい生命が生まれたような体感には大変驚きました。今日のコンサート前に、私にとってはとても嫌な用事があり、昨日は思わず先生に嫌で嫌でたまらないと言ってしまいました。先生は、メッセージのお言葉「「わびは寂れとか穢れとか本来目を覆いたくなるような事柄の中にも積極的に受け容れ、楽しもうとする言葉です。」をおっしゃいました。わびとはこのような時にも使われることを教えていただき、とても嫌でしたが、この言葉を考え、日本人であるので、その豊かさを経験することは必要であると考え直し、出かけました。おっしゃる通りの経験ができ、コンサートの経験が活かされることは喜びであり人生を豊かに生きていけることを学びました。
今日のメッセージは私がいつも感じ、考えるテーマでしたので、タイトルを読ませていただいた時に、昨夜から感じるしんどさを考えるとドンピシャリと救われる思いでした。第一部「自己疎外」
「「疎外」ということを最近あまり言われなくなりました。それでも「疎外」という言葉をご存知だと思います。自分の本来性をしっかりわかることもなく自分が自分によそよそしいか、あるいは全く自己の本来性など感じることもできないままにある状態を表す言葉です。厳密に哲学的にいうと、言語だけでそのまま理解するのはなかなか困難でもあります。愛を語り、愛を生きているように見えてもむしろ愛ということからもますますそれも時間が経つと共に遠のいて内面的成長など夢にも見れません。愛の疎外、絶えず、得体の知れない不安に囚われ生きる意味まで喪失しかねないことを「自己疎外」といいます。絶えず、内面的感覚、命を取り戻すことをコンサートで行なわれています。大本の理由は「疎外」からの脱出なくしては愛も日常生活も何ら意味をなさない可能性がいつもあるからです。」
太く深く厚いピアノの音はこの音がピアノという楽器から鳴っていることを忘れ、大地の神が現れたと感じました。大地の神は大地から出、動き出しました。地響きがし、大地の神が動くと、生きる世界が変わります。大地の神がお腹と繋がり、自分自身が揺るがぬ存在となったと感じました。その後で疎外される苦しみを感じました。大きな建物がはだかり、その建物の中に組み込まれ、生きる気力が失われていくのです。大きな建物は教会であったり学校でした。高校時代のことを思い出しているのかと考えました。私は自分の高校の建物は灰色の建物と呼び、刑務所のようだと感じていました。毎日書いていた日記には何故灰色の建物の中に入っていかなければならないのかとその苦しみを綴っていました。先生にお会いし、存在論をお聞きした時、学校は刑務所をモデルにし作られたと知った時には深く深く合点がいき、やっとわかっていただける方にお会いできたので、抜け出せると驚喜しました。人間は作られた組織や規則に合うように生きると、生きていけない程苦しいことをコンサートにて再び経験し、先生にお会いする前の死ぬほど苦しかった自分の状態を見るようでした。型に合わせると、生きていけず、自分を見出すどころではなく、自分の本質は失うことは人生でずっと経験していることです。先生にお会いし、疎外について教えていただいた時には、先生にお会いする前の人生は疎外されていたので、死ぬほど苦しんだのだと原因がよくわかりました。先生は疎外をテーマに探求してこられたとお聞きすると、救世主のように感じ、疎外を抜け出す答えが人類を救済すると見えたことが蘇る今日の経験でした。
演奏が進むにつれ、空間に無限に注がれる愛、大いなる働きかけと自分の内にある光が繋がり、内から生まれる力が大きく強くなり、自分を覆い、はめていた型が崩れ去りました。この経験こそが疎外からの脱出とわかり、救われました。一部では疎外からの脱出を経験しました。
第2部は「愛の成立」
「自己によそよそしくて何かをしようとする気力が生まれるでしょうか。自己によそよそしいままにいると自分のうちに育まれ、芽を出そうとしていることも知らぬ間に踏みにじってしまうのではないでしょうか。他者との関わりの中ではこのような状態は同情することでよしとし、共感(共感関係)など夢にも見れないでしょう。愛が成立する為には第一部で少しばかり経験されたような自己疎外から抜け出したことが理屈抜きで必須なことです。空間から降り注がれる、あるいは大地から湧き上がる愛のエネルギーを自己のうちに受け容れ、初めて愛は何かということが身を以てしっかりわかるでしょう。」
とてもピアノの音とは思えない音の連続に驚くばかりです。私には今日も世界中の神々が合体していると見えました。私がガルーダと呼ぶ神も形を変え現れました。神々は形を変えあらわれています。ひとつでありながらそれぞれの働き、力が現れ有無を言わせぬ迫力を前にじっと受け容れるよりないということは人間であればどなたもそうなると身を以て感じます。空間からも大地からも神の愛のエネルギーが降り注がれ、内面は愛に満ちてきます。空間と境ない生命となり、愛に満ち、満たされます。私は自分によそよそしいという表現を身に沁みわかります。先生にお会いする前は死んでしまいたいと感じる程苦しみました。今は自分によそよそしくなると疎外とわかりますので、自分の資質、真の力を表し活かすことが抜け出す答えと考え、真の自分を表現することに尽くします。思い起こせば、「夢か現実か」のメッセージがあったコンサートの時くらいからよそよそしくなっていました。自分で作った観念が神の如くに君臨し、監視されているように感じていました。神に裁かれることを恐れる感覚がありました。先生の演奏をお聴きし、反応している感覚を言葉にした時、「怖い」と感じました。何が怖いのかと問うと、間違うことを恐れていました。先生が表現してくださっていることをわからずに間違って生きてしまうことは怖いといつも感じています。が、自分の内で正解があるので、怖がっていると気づき始めました。コンサートでは神は多様であることを経験させていただきました。愛も多様であり、常に変化していることを経験し自由を感じ、胸は無限な世界と繋がり、「生きていける」喜びに震えました。愛を経験し自分で自分を疎外している状態がよく見えてきました。ひとつわかるとわかったことに疎外されます。今日のコンサートも愛よりなく、それも大いなる存在の愛、神の愛を生命で感じました。愛があれば疎外はありません。今日もこの状態で生きいていく、と心に誓いました。
今日もコンサート後に魂コーヒーを淹れると、東明王様が現れ、先生に十分受け容れられ、魂は十分に報われたことを伝えてくれました。これからは先生に報いていくことを一緒に為していこうと語りかけてくれました。真に、毎日これほどの経験をさせていただき、感謝よりありません。生涯で一度でも聴ければ、この世の奇跡を見る人生となるコンサートを毎日経験させていただいているのです。このことの意味をよくわかる時が来たと感じています。わからずに終わることはできないと回数が進むにつれ、より真剣勝負となっています。6月の20回のコンサートは東京では早くも明日1日(日つけが変わりましたので、今日となりますが)となりました。畏れ多く、先祖の代表で経験させていただけますことに深く感謝します。ありがとうございます。