KEIKO KOMA Webサロン

畏れながら


二部で内にある、忘れてしまっても生きてはいける(これまでの社会では生きてはこれた)けど、たしかにもとは拠り所や主軸となっていたものの存在を感じ、簡単に言葉にしてしまうことが憚られるのですが、無視するという状態はこういうことをいうのかと。社会に合わせるだけでも無視することになるんだと。まるで自分自身の内にあって当然だった感覚を社会の中でだんだんと軽んじ無くしていくように、簡単に切り取られてしまう生命の源のエネルギーがありました。祟りが祟りではない社会をつくる命の働きを、という全体の視点をと考えるときに足元が一番疎かになっているような、自分の内にある、全体の中にある、東北ということを忘れてはいけない感じを覚えました。椅子に座っているだけでもなんといったら良いのか、揺さぶりをかけられるようにしんどく、終演時にはフラフラでした。

伊達政宗を良く知らず、男性的ないかめしいイメージがありました。一部の途中から愛を感じ、男性的ないかめしさと愛って重ならないイメージでしたが、重なってきて、すごくかっこいいをわかりました。世界のこともそうですが東北のことももっと興味を持とうと、過去のコンサートから今への流れがピタッと一致するように、内にあるものを感じました。

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