生命の湧き水
今年の3月11日に私が経験させていただきました出来事を書き込みします。この3月11日を、人を突然亡くされる悲しみ、苦しみがどれほどの事かと、身にしみて感じて迎えました。
今年の3月11日は、高麗屋さんの幻のkoguryo cafeの日でした。高麗屋さんはとても幸せな時が流れて、高麗さんの淹れて下さるコーヒーと初めての高麗美人しるこをいただきました。コーヒーをいただくと、本当に神々しく、身に流れてゆく体感は潔くそしてさわやかで、この世のあらゆる俗なものさえ超越している体感でした。それは神といえるのか、しかし今までの世界で当たり前となっているような対象にする存在ではなく、生命にひとつに流れているような存在でした。人と共にあり、神々しい大地や自然にくまなくそしてそのまま通りぬけている空間のようでもあり、風のようでもありました。そこで生きる生き物は、みなひとつに生き存在している幸せな世界でした。あらゆる所を通りぬけるその光のような流れは、そこに生きる皆の生命をひとつにし、支えていました。そこに生きる人は、皆が生きられる世界を力強く創っていました。コーヒーをいただきながら、私の身の内にとてもなつかしいような光景が広がってゆくような心地でした。それはぬくもりという言葉だけでは足りないような、こんな世界があるんだと云うような場所であり、その時の私の生命の安堵と安らぎの体感は今も身体にあります。コーヒーと一緒にいただく高麗美人しるこは本当に美味しく、延々と食べていたいお味です。このコーヒーをいただきながら高麗美人しるこをいただけるひとときは、幸せの花が咲いているようでした。天真爛漫な少女のような方に私の内面の詩を書いていただき、その詩を頂いた時、私の生命の中心から美しい活力が生まれていました。私の内には、生き生きとした花が咲いたように潤い、嬉しいひとときでした。そして、私は枯れそうだったんだなと知りました。内面に生命の花が在るとしたら、そこに水をさしていただきました体感でした。生命の花が元気で在ることは、人間が健やかに生きることと同じことなのだと知ります。その後の京都コンサートホールにたどり着いてからも、高麗屋さんでの経験が私にとり衝撃過ぎたのか、私の胸の内では、なぜかレバノンでの高句麗伝説の東明王様の詩の所がリアルに鳴り響きながら、コンサートは始まりました。「神」と云う言語も、「愛」と云う言葉も、私の頭の中にある概念とは全く違うのだと云う、経験をしました。私の頭の中でその言葉の表面だけを記号のようにして捉えていた状態から解放されたようで、それからの私の身体はとても身軽にあります。そして私の頭の中にある概念が変わったと思ったのですが、これは概念という高尚なものではなく、ただ単なる思い込みであることを知りました。何にせよ、人の生命が閉じこめられて苦しいような状態は、「神」でも「愛」でもなく、本当はこんなに生きてゆける源の力であることを経験しました。そして、思えば10年前の3月11日の少し前から、矢が刺さったように傷んでいた私の身体の場所がありましたが、コンサートのピアノの音に引き抜かれるようにして、そこから何かが抜けていくのがわかる程の体感がありました。最後に父の事ですが、とても格好良い姿で全力で働いているようでした。そして、えらく高みから私の事を見おろしているようで、どこか満足げな姿でした。そういえば、前回のコンサートの最後に父は「一足先に五女山に行って待ってるよ」と云うようなことを言っていた事を思い出しました。父は何のご縁で、何の徳があってそこにいるのか今の私にはわからないけれど、私は生きてそこまで行くので、待っててよ!という気持ちです。
そして翌日の12日の迎賓館コンサートはライブ配信にて参加しました。気づいたらコンサートの終演とともに、とても健やかに目覚めて、それからとても元気に今があります。ありがとうございます。