生きる
今の職場はバス通勤ですが、帰りは途中下車して半分歩いたり、全部歩いても40分なのでバスに乗らず全て歩いて帰ったりすることが多いです。バスで帰るととても疲れてしまうからです。歩いて帰ったほうが元気に帰宅できます。帰り道の後半にさしかかると井の頭公園沿いをずっと歩きます。ひんやりした土の匂いとか草の匂いがしてきて、それを吸い込むと「生きている」と感じられて、「自分がここにいるな」と感じられて、それが良いです。
待ち遠しかった三鷹での2日間のコンサートでは、風のホールに向かう道の向こうに立つ大きな木を久し振りに見ました。夕方の広い空の下に立つ大きな木の風景は懐かしくて、家路を辿るように風のホールに向かうのが好きです。こういう瞬間、瞬間が自分らしくて、言葉になる以前の、なにか言葉が生まれ出る土壌のようなものが内面で耕されていく好ましい感覚があり、この世の時間の枠がこわれて、表面意識の自分が知り得ない、遠い昔や、未来の光景・・・何でも知っている自分、広い広い空間に溶け込む自分になっています。
2日目のコンサートの時に「生きる」という言葉が生まれました。日々のやる事をこなすように、時には追われるように生きていると、いつの間にか生きることの外に出てしまっています。それは嫌だ、私は生きたいのだ・・否、「私は生きる。」と言葉が生まれた瞬間、体がどんどん熱くなり、先生のピアノの音が奔流となって身体に入ってきました。
「生きる。それは神と共に生きること。」と言葉が生まれ、今も心の中にあります。コンサートのメッセージにありました「神は愛」も、心の中にあります。どのような環境にあっても光輝いているラインストーンのように感じられます。
先生の音で、低音ですごい存在感のある音、響き、が神様が語りかけて下さっているように感じられてなりませんでした。
いついかなる時も共にいて下さる超越的存在を音に表して下さり、生きる世界、生きる方向を示して下さり、有り難うございます。久し振りにコンサートの経験をさせて頂き、有り難うございます。