生きる意味問う人生
三鷹の地での「存在論」にて、「問うこと」と何度も先生はおっしゃいました。私は物心ついた時から自分は何故生まれ、どう生きるのか、死んだらどうなっていくのか。自分という存在を問い続け生きてきました。先生が問うことをおっしゃる度に、問うてきたけれど、答えを得ることはできなかったと考えていました。先生に出会い、問うた時に答えを見出していけたことは私にとって死から生へと大逆転したのです。問うこと、そして問い続けてきた人生を考えた時、先生は現存在でなければ問うことはできないとお話しされました。存在者であれば問うことさえもしないとは甚くわかることであります。私は死ぬ程苦しんで人生のこと生きる意味を考えていた時も周りの人は人生など考えもしないと言っていました。自分が問うて生きてきたこと、問うても答えのない虚しさに死ぬ程苦しんだこと等を思い出し、先生のお話をお聞きし、考えることが続きました。ハイデガーの時代は問うても答えはない時代であったともお聞きし、私も問うても答えがなかったと同じに考えることはあまりに憚れると考えました。知識もなく学問を極めたこともない自分が問うても答えがないということと、ハイデガーがおっしゃることは次元が違うと考えてから、何かの歯車が狂うように、先生のお話を一生懸命にお聞きしないと聞きとれない状態となっていました。私は、先生に出会ったので、問うても答えを見出していけるようになったと考えていました。生きる意味、「生きる」とはを四六時中考え生きてきましたが、先生に出会える前は、考えると虚しくなるばかりで気が狂う寸前と自分では感じていました。どこにも手がかりもなく、真をわかる実体がないと感じ、精神が不安定になるばかりでした。先生に出会ってからは、考えると答えを見出せます。そして生きている実感を感じていけることが私にとって何より「生きる」ことそのものであり、生きる意味がわかるのでした。そして存在することの意味は考えない時はない程、存在することの意味をわかりたいと望み生きてきました。このことも先生に出会ってからは日に日に年々わかることができることに生きる真の希望を見出し生きてこれました。私の生きる意味は自分が存在することの意味がわかり、存在することです。自分の存在を明確にし、生きれれば幸せと、先生がおっしゃったことに深く同意します。人間の幸せとは何かも随分考えました。自分が行き着いた答えは、この世に生まれた意味、存在することの意味は真の自分を活かし、世界の平和に貢献することです。その時、人生は幸せな人生となっていると見出しました。そして一人一人が健康で幸せに生きていける世の中は平和となっていると見え、自分の生きる方向も生きる道も決まりました。NPO高麗の活動趣旨「一人一人が真の自分を表し、幸せに生きていける世界は平和な世界」を世界に伝え、実現していくことです。
このように自分が生きる意味も存在することの意味も自ら生きることでわかっていける人生が始まりましたのは、先生との出会いであり、先生から人間とは何かを教えていただいたからです。存在に出会えば、存在することの意味がわかると自分では考えました。すると、世界中の人間が先生に出会うこと、たとえ直接にはお会いできなくても、先生が常に新しい世界を創造し続けてくださっている人間が人間とし生きていける空間と出会い、真の自分に出会うことが起これば、存在することがわかる人生が始まります。人間の幸せを考えても世界の平和を考えても、私が見える答えは、いだき講座、コンサートの経験の場をたくさん世界に創ることです。どこから考えても私の生きる道もやるべきこともここに行きつきます。「存在論」は最も好きな講座です。人間とは何かの答えを見出し、全ての存在とひとつに生きる先生から「存在論」をお聞きできるのです。存在することを考えていける尊い機会であり答えまで見出していけるかけがえのない機会は世界でもここよりないとわかり、あまりの幸運、恵みに深く感謝します。今日も歯車が狂い始めたことから、色々考え、気づくことが多く、心より感謝しています。
帰宅し、父のことを想い、いただいたお花を生けました。仲間が毎年父母の命日にはお花を贈ってくださいます。もう21年目にもなるのに、忘れずにいてくださり、お気持ちをいただき、今日も心より感謝しお花を生けました。先生が特別に開催してくださった「父を語るコンサート」の時に舞台に飾らせていただきました父の大きな写真を眺め、「お父さん。今年も綺麗なお花をいただいたよ」と語りかけ、花瓶を写真の前、横に置き、お花を飾らせていただきました。その瞬間、存在することを生命でわかりました。同時に、歯車が狂う時は対象化し自分を見、自分で自分を疎外する悪い癖とはっきりわかりました。感覚的には生命一つである状態から外れていきますので、自分を見ている位置にいます。奥に引っ込んでいく状態です。隠したり隠された存在が表に現ると全てがひっくり返るという内容のお話をお聞きし、これからは引っ込んでなどいられない、謙遜のつもりで自分で卑下し、存在を隠し、押し込め、何の為に生きているのかわからない生き方など一瞬とて、してはならないことを父の写真を前に、自分を糾し、存在表し生きることを父に誓いました。
数日前、突然亡き母をリアルに感じ、真に母が居るように感じ、自分がどこにいて、いつの時を生きているのか、何がなんだかわからずに涙こみ上げ、会えたことを喜びました。が、次の瞬間、母は亡くなっている現実と、生きている母に会えた訳ではないことを自覚し、何故死んだのか、と嘆いてしまったのです。父の命日に三鷹の地にて先生がコンサートをしてくださる今、昨日も書きましたが魂総動員で働いてくださっていることが見えもし、体でも感じています。この現実を受け止め生きていかねば完全に取り残され、生きている意味のない人生となるとは明らかに見えます。魂が働いてくれているので亡き母にも会えたのに、それを嘆く愚かな悪い癖が顔をだし、自分を疎外していくのです。体は悪くなるのは頭の働きであり、体を悪くする頭はあるのに、良くする頭はないのかと今日もお話ししてくださった時、情けなく、恥ずかしくて思わず下を向いてしまいました。嘆くことはできてもよりよく前向きに工夫することができないのも同じです。悪い癖とは自覚していましたが、私は父の命日には完全に変わると心に決めていますので、11月1日の三鷹での先生のコンサートには悪い癖は全て捨てて、臨ませていただく気持ちでここにも書かせていただきます。先生も11月1日から大きく変わるときっぱりとおっしゃいました。目に見えない世界とは話をつけておられるのだと見えました。とても嬉しく希望を感じます。これからの時代はすベてが先生がお話しくださった方向や流れで動いていきます。変わる時には変わらねば、生きていけなくなります。たとえ生きていけても人間として生きる意味のない人生となります。私にとっては生きていることにはならない人生を生きざるを得ないことは何より恐ろしいことです。
言葉は真理に到達するとお聞きしました。本音、真は隠されているので表現する中で、天の岩戸が開き神あらわるように、真、存在があらわるとのお話が道標です。コーチングも言葉が正確でないコーチは人の体を痛めるとお聞きしました。自分の言葉でちゃんと自分をコーチすることも教えていただき、実行あるのみです。
父の命日を前にし、存在論を経験させていただき、父の遺影を前にし多くを気づかせていただき、今までの人間の生き方が根こそぎ変わらねば生きていけないことを身を以てわかりました。先生がおっしゃるように11月1日、今日をもって完全に変わり、新しく拓かれた世界で生きる生命となり生きると心に決め、大切なコンサートに向かいます。ありがとうございます。