生きて生まれ変わる
コンサート会場に到着する直前に、突然、以前この会場で大変苦しんだ事を思い出しました。正に死霊だらけで息もできない苦しみに襲われ、葬儀場か火葬場に来たように感じ、行き場がなくなり、先生にお電話をさせて戴き、助けて頂いた事をふと車を降りる直前にお話しすると、泉というのは昔、仙台藩の刑場だったという事を先生の息子さんから聞きました。過去が解放されない限り、子孫代々ずっと引きずり、苦しんでいくのが人間の今までの人生であったと身に沁み感じました。私は、昨夜も激痛により目が覚め、一瞬鎮痛剤を飲もうとしましたがやめました。今まで歯の治療も、怪我で手を縫う時も、麻酔をしないで我慢した理由は、自分の感覚が鈍くなることは死を意味していたからです。この度、死霊というのか何というのか、私は死霊だと感じていましたが、怒涛の如く押し寄せてきた時、気が狂いそうに激痛に襲われました。先生にお会いして初めて鎮痛剤を飲みました。昨日も書きましたが、鎮痛剤も効かなかったので、病院まで行きましたが、レントゲンを撮ったり、診察した結果、原因はわからないという事でこの苦しみが解放されるのは、先生よりいない事はこの度も生命をもって甚く感じていたのです。コンサートより抜け出し口はないのです。そのコンサートもまた、死霊だらけと感じて苦しんだ場所だったので、これも解決に向かうはたらきかけであったと自分では受け止めました。ご来場の方も苦しいとおっしゃる方が多かったです。全ての人間にとって今日この日こそは真に抜け出せる時と自分は身に沁み感じていました。第一部のコンサートメッセージ「水流」メッセージに「自然の流れに逆らわずあるのが自然の生命体です。しかし人間は新たなる自然とは似ても似つかない黄泉の国への流れを意識もせず作ってしまいました。「黄泉」は黄色い泉と書きます」これで泉という地名なのかというのも、ショックを受けながら驚きました。「どこまで流れても浄化はなく行き着く先には何の救いもありません。偽りの現実を生きて時により罪を犯し、殺害されても実は現実は何ら改善される事もなく、黄泉への水流が増すばかりです。現実の生あるものにとっては不健康な流れです。病と不運の元にもなります。この水流を断ち切る事が急務です。美しい自然の流れに導きたいとおもいます。世界中の死霊達へのメッセージです」先生がメッセージにて伝えて下さった事をそのままが見える様に体験しました。開場前に先生は白いコーヒーを淹れて下さいました。その時、この地の刑場であった歴史から人間がどのように生きるようになったか、そして死んだ後も行き場がないので怨霊となってしまう事等をお話し下さいました。そのお話をたくさんの数えきれない死霊が聞いているのが私の目には見えました。私の目には今日もコンサート会場は死霊だらけと見えました。先生の演奏により、世界中の死霊が黄泉の国への水流から水の流れが変わった事をキャッチしたと見える瞬間がありました。先生の第一部のメッセージの最後の締めくくりに「本日は皆様に言葉に尽くせぬ感謝を申し上げます。何事、何者にも邪魔されず、お一人お一人の人生の本流である愛の輝き…。」私は何事、何者にも邪魔されずというお言葉が真に生きる希望でした。そして人生の本流というお言葉も、これからの生きる希望の道と感じました。それは、昨年の10月1日の「高句麗伝説」にて先生が全面に現れた時、私は、「本流の本音」という表現をもってロシアへの道を切り拓くと決めたからです。正に本流という言葉になる生命の内面の状態でした。昨夜から今朝も激痛によって苦しんでいましたが、ふと先生のコーヒーを淹れた時に気づいた事がありました。先生が「手が治るコーヒー」とおっしゃり渡してくれたコーヒーです。その時、聖書のヨブ記を思い出しました。試練を与えられ、神への信仰を試されたヨブのお話です。私もどんな苦しみがあっても揺るがないのかと試されていると見える瞬間がありました。その瞬間自分の生命の内からどんな苦しみがあっても揺らぐ事はないときっぱりと宣言していました。ここより人類全体が生きる道はないとわかっているからです。苦しみを与えて試すような存在は神ではないとも声を出して言っていました。先生のコーヒーを淹れながらおおいなる存在だったら…と考えました。その瞬間、自分の過去の神観念やキリスト教によって埋め込まれた神観念により、自分は痛みや苦しみと闘うようになったのかもしれないと気づいたのです。全ては虚しく感じ、こんなことやってられないと気づきました。そして今日は薬を飲まずに痛みと闘う事も止め、痛むままにいました。すると、痛くない方がそれはありがたい事ですが、痛いや苦しいかによってものを考えていく意識の枠はなくなっていました。先生のメッセージにありました、黄泉への水流を断ち切ると宣言しながら先生の演奏を真剣にしっかりと聴かせて戴きました。世界中の死霊が黄泉への水流から先生の方に向かう流れに変わっていくことが見え、私の生命の内に一体となっていた死霊も生命から抜け出し先生の方に向かっていくのが見える様にわかりました。体は熱くなるばかりでした。深く感動し、一部は終わりました。そして第二部、「転生」です。「どのように望んでも生きたまま生まれ変わる事は出来ません。」冒頭のこのお言葉に頷くよりありません。そして、全文を書けずに申し訳ございませんが、「今や人類は、内面を根源的に変わる事により、この生あるままに生まれ変わったように生きる事が可能となりました。今日のコンサートにいらした方はその大きな一歩となります」これ以外生きる道なしと胸の内に希望の光が輝き、救われる思いでした。私は、38年ぶりに鎮痛剤を飲んだ3月10日の夜、今までの人生を終わりにすると心に決めました。自分の葬式を済ませた様に考えて生きてみようと考えていました。それ程に過去の名残があってはこれからの時代は生きていけない事を生命をもってわかったのです。先生の東北センターでの応用コースのお話の時も生きて生まれ変わった様に生きるよりないと感じていました。先生にお会い出来てからの人生は素晴らしい人生でしたから、過去を否定する事はないのですが、これからは生きられない事だけは生命で感じているのです。今日をもって第一歩というメッセージには真に救われる思いでした。二部も一生懸命真剣に聴かせて戴き、後半突然、自分の内に悲しみの元を見ました。それは、日本が世界で唯一原爆を投下されたことが生命の悲しみでした。先生も幼い頃原爆投下により足が腐ったという事をお聞きしています。先生ご自身が原爆にあわれたという事ではなく、原爆を作り、原爆を投下するという人間と人間を動かす悪魔のエネルギーにより身を痛められたと原因を調べた時に見えました。大変な衝撃を受けました。そして原爆投下は新人類殺しであったという事もわかった時、自分の内では悲しみを超え、怒りを超え、やりきれなさを超え、言葉によっては表せないある感情、感覚がある事に気づきました。その事にふれ先生の演奏を聴かせて戴いた時、涙ばかりがあふれてきました。人類の敵という人間の生命を犠牲にするエネルギーを変えていけるのは先生よりおられないとわかり、いだきをずっとさせて戴いています。長い人類史の中で殺戮を繰り返し人間の生命が虫けらの様に扱われる事に言いようのない憤りと悲しみを感じてきました。更に悲しくなるのは、悲しめば悲しむ程、また憤りを感じれば感じる程、それさえもエネルギー源として悪魔に使われる事でした。その仕組みから抜け出せる道はただひとつ、真の自分の光で生きる事です。いだき講座を始めた35年前の3月2日、先生は「現代は核戦争の時代であり、一発で世界滅亡の危機にある時代に生きる我々一人一人はどのようにし自分の身を守り生きていくのか」と受講生に問われました。私は最も知りたい事でした。お答えは、「母の胎内に発生した瞬間の光は誰も犯す事は出来ない」とのことでした。私は、ここに全ての答えがあり、真の希望を見出しました。世界滅亡の危機にある時代、ここに賭けるより他に生きる道はないと見えていました。今日も生命の中で原爆を投下された悲しみがあることを知った時、真の光で生きると心に誓いました。大宇宙に立つ光の柱が立ち現れました。肩から背中に巨大な光の束が落ちてきた様に強い衝撃と共に全身、光に包まれ、次元を超える温かさに包まれました。おおいなる存在に受け容れられたと体感し、涙ばかりが込み上げます。今、この時代に仙台泉の地にて死霊解決のコンサート開催という恵に与かり、先生はどれだけ大変だったかは、申し訳ないながら想像も出来ない事でありますが、死ぬほど苦しんだ私は、今日のコンサートがどれ程の事かは生命をもってわかります。言葉によっては表し尽くせぬ、感動、感謝、愛に包まれました。
私は、東北センターの応用コースが終わった後、手が腫れ上がって大変痛んでいた為に、先生に痛みを思わず訴えてしまいました。その時、脱皮し、解放された時の解放感は最高だよとおっしゃって下さった、そのお言葉がずっと心にありました。夜通し激痛に苦しみ、昼間も苦しみ、鎮痛剤によって痛みから解放される事はなく、今日のコンサートにて地獄の死ぬよりない苦しみから解放されました。この解放感があれば、痛みは耐えられるのです。また、時間の問題で改善するという先も見えるのです。ずっと解放される事なく、痛み苦しみ続けている死霊の苦しみを我が身をもって経験し、先生のはたらきは生きている人間だけではなく、亡くなった無数の方々にとっても救済のはたらきである事を今までもわかっていたつもりでしたけれど、この度程身をもってわかった事はありません。死ぬ程の苦しみをしたのでこれから自分の経験し、わかった先生のはたらきを世界中の人に伝えていく事が私の生きる道とはっきりとわかります。ありがとうございます。