生きている
京都の応用コースに生放送で参加をしました。全体的によくわからなかったので録画の放送も何回も聞きます。電話で人と話をしただけでもバリバリと痛んでしまった身と生きていきたくなくなってしまった心が、ピアノを聴くと和らいでいきました。『ではいまここで死を選びますか』と問えば『それはしない』と答えます。それだけでもそこから生きていけます。一生懸命にがんばって生きている方の強い思いに当たって倒れたんだなとあとからわかりました。一生懸命にがんばるのは良いことなはずなのになぜか酷く痛い。自分がなにかを説明したくて、一生懸命になりすぎて相手を深く見ることができない状態には私もよくなると自覚していますが、そこに苛立ちや憎しみすら呼び起こすのは、『なにか』が足りないため。『なにか』がなければすべからく滅びへ向かう。そのなにかとは・・・美しく生きることですね。よくよくお伺いしています。美しいとは無駄がないこと。無駄がないとは、強いこと。
応用コースをお聞きするまえ、誤解を生む表現かもしれませんが、『狂ってしまう人の感性の方がまとかもしれない』と思いました。(狂うことをよいものとしているわけでありません。)自分自身やまた社会にあまり疑いを持たない(らしい)、まっすぐに堂々とした人が発するものに、激痛をもよおしてしまってびっくりしました。自分は大丈夫なんだろうかと、これからどうするんだと考えました。普通が取り柄だったのに普通には生きられないんだな、と、改めて少し社会と自分自身を知った気になりました。でも普通よりもっと良いもので生きていきます。様々な事件の加害者は被害者、被害者は加害者だとついに自分のこととして感じてしまいました。無駄な時間を過ごさないために、焦点を絞って、なにがあっても大切なことを優先していく。
すべてを数字(数値?)で捉えるというお話。なにもないところに数字という完全に抽象化されたものだけがあるのは怖くて仕方ない。だからいろんな感情をくっつけて賑やかにするんだと思います。で、数字をそのまま見れるようになります。