瑞光
世間は年末でありながらもうすでに、この度のコンサートでは、まるで一足先に、新しい年が明けたことを告げているような、一部の瑞光のメッセージとお聞きする演奏からは、金の鳥が飛び出し、翼はためかせ、倍音を幾重にも広げ、壮大な未来への流れを作っているような時空間を感じていました。先生のなされることは人間が概念で想定できるものではありませんこと、わかっています私は、それでも一部のピアノの音を聞き、パイプオルガンの音に身を置かせて頂き、後頭部の違和感が癒やされることに安堵します。二部のパイプオルガンから始まりました空間では果てしない宇宙空間のいったいどれだけの旅をしてきたでしょうか、というふうな体感です。そしてピアノになった演奏では、バイカル湖の歌を一度きりしか習わなかった学生時代の記憶が急に出てきて、ロシア人のように、空でロシア語で歌う母の裡にあるロシアの報われない数々の魂が、私の胸の中で涙となり、光に出会え、報われていくことことの喜びを私の体を借りて表すのでした。温かな涙がはらりはらりと、落ち葉のようにマーブリングの、ワンピースに落ちていくのでした。場は違えども、ともにあったコンサートでした。5ヶ月間、一緒に暮らし、87歳である母という存在を新たに感じ、ロシアが母をどれだけ影響せしめているか、死ぬときは幸せに死にたい、とポツリといったその本音を私は忘れません。ロシアのことを書くと涙なくしてはかけない自分もどうにかしています。二部のピアノでは雪の降る光景、それが五女山なのか、レバノンの山の雪景色なのか、ロシアの雪の光景なのか、雪国で育った幼少時期の光景なのか、すべてが混じり合ったようにひとつになりすべてが報われていく、そのような喜びの涙に溢れておりました。そして今朝になり、光が突然飛び込んできたので、驚いています。
これからの動いていける光を身のうちに、ありがとうございます。