清らかに
12/8の京都コンサート、現地にてコンサートに参加させて頂き、素晴らしい経験を心よりありがとうございました。
12/5アントレプレヌールサロンで質問させて頂き、発言内容から検討違いだったかのような恥ずかしい内容でしたが、丸ごと受け止めて頂いたことは、サロン終了後、内面が喜び溢れ、充足感に満ちた身体となっていたことでよく分かりました。その夜、翌日も自分の心が明るく、人と話しても明るさが広がってゆく嬉しさがありました。ただ夜勤が続いた為か身体の疲労と共に今朝は状態が落ちてしまい、コンサートに参加させて頂く期待を胸に京都へ向かいました。しかし情け無いことに、私はお金の範囲で行動を制限する根強い頭の枠があり、育った家庭環境の影響から抜け出せず、気持ちすら最初から無かったようにやり過ごす癖がある、という事をコンサート前に嫌になる程にわかる機会がありました。頭の枠がどうより、生命の喜びが何より人生を前進させるのに、と生き方を変えたい気持ちとなるのでした。
第一部のパイプオルガンの音は凄まじい音の洪水のようでいて、瞬間、瞬間、音は新しく生まれ続け、幾重にも重なり深みを増しながら上昇するエネルギーとなり空間中に響き渡りながら、ある何かのあらわれのようでもありました。
質問させて頂いた時に、そのままの言葉でなく申し訳ないのですが、即興の表現の時に頭で解釈したり出来る訳がないというようなお話をお聞きしたのですが、その意味がよくわかりました。
身体を感じていると、ある時中心に込み上げてくるものがあり涙が溢れ続けます。上昇するエネルギーは足元から頭を抜け空間へ突き抜けてゆく迫力で、身を委ね、今が解放へ向かう奇跡の瞬間の連続であることは胸の震え、身体でわかり、衝撃は演奏後も続くのでした。
第二部の演奏から最初に感じたのはクリスマスでした。聖なる夜、大切な人々と集うぬくもりの中、神のご加護に感謝し、神の恵みである食事を皆で頂く時、神聖な心洗われる空間を感じていました。
やがて、繊細なピアノの音は生命に静かに響き、生命の中で出会っている”ある存在の愛”が感じられました。それは常に寄り添い、共に在り続けてくれる存在でした。例え独りぼっちで寂しい状況であっても、生命の内で出会っている存在の愛に気付けば、生きてゆける力となる、と涙滲みました。ピアノの音は清らかな心のようで、聴いていると心が清められ、優しく清らかで不思議にお腹が空くのでした。優しく清らかなところに大きなある存在が交わり、神聖な空間が広がり、脳の奥まで清らかになってゆくようでした。
最後のアリランは、純粋な心を感じる一音一音でした。これからは純粋な心のままで生きてゆける、なんの犠牲もない、完璧に美しく優しい世界を経験し、人間としての幸せをわかり、心よりありがたい気持ちで一杯となりました。
また、素晴らしい経験を言葉にすることの大切さを感じます。自分の至らなさも、わかる機会は有難く、続ける中で成長してゆきたいと感じています。