海風
遥かなる古代の湖、琵琶湖の地での「高句麗伝説」コンサートに参席出来、誠にありがとうございます。コンサートから一夜明けた今日の琵琶湖の水の色は、深くて広い、その青が新しい輝きを放っているように私の胸に届いています。かつてレバノンに訪れたときに見た、あの異国の海と港町のような気配がしています。ここから世界へ出航し、世界と繋がり生きている街並と海の様子に見えるのが不思議でワクワクします。
5月14日、びわ湖ホールでの「高句麗伝説」が始まると、暗闇の山の中に、ひとり透明で明るい光を宿した人間が生きてゆく光景が、私の身にも届いているようで、その輝きとエネルギーに私の生命は躍動します。コンサートで新しい時代が、音となり、言葉となり、表現され生み出されその場に満ちる経験をさせていただくと、今生まれているこの光を身体に閉ざすことなく受けていければ生きられることを知ります。全てが滅び行く時代に、生命が生きてゆける方向の世界がこの地球上に生まれた時、新しい時代は人類が生きてゆける方向へとシフトしているようでした。新しい時代が生まれている時、人間が生きる空間にもこの身体にも、その時代の方向が光となって届き、満ちているようでした。しかし古き生き方によって新たな時代の光がこの身に注がれる事を閉ざすようにしていると、そこは病のようになり終わってゆくことを、自らの身体を以って経験したようです。新しい世界、救済の世界が生まれるとはこういうことなのかなという心境です。古代よりある琵琶湖という湖の底は、新しい光と繋がり、新しい光が生まれているようで、それも生命が生きられる先端の世界が、満を持して開かれているようでした。海の底と湖の底は最先端の時代を駆けているようでもあります。そうすると、古い生き方でこの時の光を閉ざすように生きている人間は、太古の化石か亡霊のような生き物のようになっていて、今まで地球の先端を走っているように生きていた人間と、古代の湖の世界は、何かが大きく逆転しているようでした。紙や言葉には何も残っていなくとも、昔であったら、本当に神話の生まれるような何かの出来事が、この湖の底には眠らされるように閉じられていたようにも感じます。
そして真の、潔く戦う高句麗人の姿が顕れていました。それを前にして生半可な世界からくたびれた体をのそのそと動かすように、もう何の力もない世界は、悪あがきをしているようなみっともない姿で現れます。しかしその後の演奏と詩で見事にその薄暗い闇は分散されていました。
それから私の身は、どこかの、もうすぐ春がくる大地にいるようでした。大地はまだ深い雪が積もる頃、春の香りと生命の息吹く光は空間に満ちているような時に、その雪が空間にとけるような香りがしていました。その清らかな香りが、私の胸の奥の方にまで届き、健やかなその香りに胸の滞りまでもが清められてゆく経験をしました。幸せに生きなさいと空間に響く優しい声が聞こえるようで、ひとりひとりの生命の誕生を、顕れ集う魂と皆でお祝いしているような時でした。
本日の奈良での「高句麗伝説」へ私の生命は向かっているのか、今朝起きた時は奈良の地に行くことに恐怖と悲しみを抱いている私がいました。人間はなぜあんなに恐ろしいことが出来るのか、その恐ろしさに嫌気がさしていました。人が光を失ったような道をたどり、死ななければならない悲しみや苦しみが私の身体のほんの少しの部位には、まだ入り混じってあることを認めざるを得ない瞬間でした。しかし、今日の新しい光に包まれた琵琶湖は、私の身体に息づく昨日のコンサートの経験と呼応しているようで、その部分にも光がさして、私も未来へ向かうことが出来ています。ありがとうございます。