流れ去るもの
ヤマハホールでのコンサート後に見た銀座の街並みは、こんなにも美しく見えるのかと驚きながら帰った一昨日の夜でした。不浄を無くすとのメッセージ通り、窯の中で燃え盛る火に焼かれているが如し、器のように身動きする事もできません。じっとなすがままでいると、どこかホッとして何もかも焼き尽くしてゼロにしたいと切望していることが分かります。何もかもうんざりしているのです。あまりにも激しく、そうでありながら包み込むやさしさに身を委ねる幸せな時です。アントレプレヌールサロンにて、「今日から自分の人生を考えてください。」との先生の言葉に対し、情けないほど何も考えられないまま、気がつくと逃げるようにして眠りに落ちていたのです。情けなさで一杯の朝を迎え、コンサートに向かうことになりました。Webサロンにも言葉が何も出ず、一言も書く事が出来ませんでした。入浴サービスやデイサービスの先生の話をお伺いしながら、ふっと父の事を思い出していました。軽い肺炎で入院したことがきっかけで、夜中に目が覚めた時に自分がどこに居るのか分からなくなり、軽いまだらボケのような現象が起こりました。その後、国立病院に間質性肺炎で入院した際に、気づいたら両足が象の足のように浮腫んで腫れあがっており、固くなった足首が動かず歩行困難となってしまったのです。退院後の母の介護の負担、特にお風呂に入る重労働を軽減するために、デイケアサービスを毎週一回頼み通所することにしました。ところが、父は迎えに来たバスに乗ることを嫌がり、行っても決してお風呂に入らず、他の方たちと一緒に時間を過ごすのを好まず一人でいました。母からそのことを聞いたので、父に「なぜお風呂に入らないのか」と問うてみました。父は、「なぜ昼間にあんな所で風呂に入らなくちゃいけないのか。家に風呂があるのに」と、逆に問います。「でもね、家でお風呂に入る時にママの負担が大きいから、できたらお風呂に入ってほしいんだ。」と話すと、「まぁ、その事はママと相談するんだな。」と言って目を閉じ、コージーコーナーのジャンボシュークリームを美味しそうに食べる姿を見て大笑いしてしまったのです。都合が悪いと薄惚けるのです。「皆となぜ一緒にトランプをしたりして遊ばないのか」と聞くと、「馬鹿らしくてやってられるか。あんな大きなカードを持って」と鼻で笑います。確かに、普通のトランプの何倍も大きなカードを持ってババ抜きする光景は滑稽です。日に日に父の顔は変化し別人となり、あんなに可愛がっていた愛犬のことも気にも留めません。身体の動きが不自由になると同時に、顔の表情も歪み乏しくなる父は字も下手になっていました。ところが、ある日突然デイケアに喜んで行くようになり楽しそうになりました。しばらくして間もなく夜中に「何か食べたい」と言いプリンを美味しそうに食べるので、母が「こんな夜中に食べて大丈夫?」と笑い、その後自分でトイレに行きベッドに戻るや否や「ありがとうね、ありがとうね、ありがとうね」と母に三回お礼を告げて崩れ落ちるようにして亡くなりました。後で聞いた話ですが、デイケアで突然「メニューを書いてあげようか」と父が言い、手伝って頂いたのだと見せてくれたメニューは、達筆でのびやかな父の字が記されていました。何もかも思い残すことなく、元気だった父に戻ってやり遂げてこの世を去ったかのようでした。瞬時にあれこれと頭の中を過ぎりながら、先生の老人ホームの話を笑いつつも、いつも涙ぐんで聞いています。人間とは何だろうか。「ゼロからの・・・」コンサートであんなに素晴らしい経験をしながら、やはりその夜も気づくと眠り込んでいました。昨日の朝、目覚めた時の朝焼けの美しい青空、白い雲、オレンジの光に包まれた空間は、感謝しかありません。やっと今になって言葉が出始めました。と同時に、惰性で油断するとたくさんの流れ去るものがあり過ぎて、取り返しがつかないことも分かる今です。