永遠の愛
京都コンサートに向かうまでは、京都の地でリストアップをしていました。空間の闇が内面に入り込み体調をどんどん悪くしていく体感で、このような体の状態に何故なっていくのか困っていました。けれど、コンサート後は気になることもなく気がつくと体調の違和感はなくなっていたことに感謝します。何をするにも気持ちがないところで人と触れ合うのは逆に魔を引込むだけなのだと痛感します。
一部では、パイプオルガンで体は全体と一つにとけこみ、余計な意識がどんどんはがしてくださっていることがわかる要がありました。一部の終わりの方でガクッと体から大きな物が抜けていった経験をして、一体何が私の体にはいりこんでいたのだろうか、と、知らないで生きていることは恐ろしいと感じ、コンサートでこのような経験をしないでずっと生きている人々の状態は、ゆくゆく先はどうなっていくのだろうかと感じます。本音を言わずといると、どんどん魔が入ってくるのだと、本音で魔を引き寄せることなく本来の輝きを発し生きていくことがベスト、と解決の言葉になります。
二部では、ピアノの音に寄り添い歌うように音を追いかけ全体をわかろうとす自分がいました。音の意味することを分かりたい気持ちでいると、次第に内なる魂が目覚めて参ります。まるでピアノの繊細な音はその存在への語りであるかのように優しく、風にそよぐ木々の木の葉の囁きのように語りかけ、私はイエスを感じました。内なる幼子の光景も見え、以前12/1の渋谷コンサートで、その子はイエスに抱っこと訴えたのです。何度もです。闇の世界から聖なる世界に引き上げてほしかったように、しきりに叫んでいたのだと感じます。そして、「愛しています」と主語はない存在がイエスに語るのです。愛しています、と自分の人生でいったことはないのです。ですので、このように言った自分がいたことに驚きました。愛しています、と自分の言葉として受け止める猶予もない、真の言葉は今も生きています。私はイエスを愛しています。
そして、続く京都コンサートでの経験により、ずっとイエスと一緒にいたい気持ちがこみ上げ泣くよりありませんでした。それには、本音を生きるよりないことも直ちにわかり、コンサート中、何年も前に生まれていたけど、あきらめていた、中心から外れていた本音をやる、と決めたのです。イエスとずっと一緒にいるためです。心に生まれる歌を歌うことが私の努めなのです。心豊かな状態でなければ、歌は生まれてこないのです。私はコンサートでイエスに会えなければ生きている意味はないのです。魂出会える内面になっていれるように、本音を生きていることが何よりも大切なのです。そのことをひしと感じたのです。すべて自分がやっていることであり、どうすればいいのかも、知っています。私はイエスとひとつでいることが望みなのです。聖なる世界で生きることを内なる魂は望んでいるのです。魂の要求を自分がやれるようにやっていないことは、魂に罪であると感じ、なんのための人生であるか、今の大切な時を知るのです。
経験を言葉に書くこともためずにやっていくことをコンサートで、誓いました。ありがとうございます。