気になること、やること
昨日の朝まず整理をとカフェに入ると例のごとく隣に70代日雇い労働者風の男性3人が席を取り、日雇いのシフトのこと、コロナのこと、貸したお金の返ってこないこと、辞めた人のことなどを話し始め、その方達の辛い感じがどっと押し寄せ私も辛くなったのでした。なぜ貧富の差があるのだろうと小さい頃から考えてます。こういう方達がいるようでは、自分もおちおち幸せになるわけにもいかない・・・でも同じように貧しげであれば世の中をみんな幸せにできるわけでもない。辛く刺さってくる貧しげな感じを浴びながら、こういう方達にお目にかかったときに、自分だけ幸せに生まれ生きている罪悪感から、自分もダメに、といってはその方達に失礼ですが、ダメになってしまいたくなるずっとある気持ちと向き合うこととなりました。
自分だけ幸せでいてはいけないという気持ちは幼いころからあります。でもそういう人達に何かを分け与えると、どんどん奪っていくばかりで、こちらの本当に大切なところまでかっさらうように奪い、最終的には何かを晴らすようにまるで自分だけではなく大切な人を陵辱されるかのようなトドメまで刺され、大切に育ててきた愛の庭は踏み荒らされ、その下品さに最後の気力の種まで尽き果て、なにもなくなってしまいます。だから手を貸すこともできず、かといって自分もそこまで不幸になりきれず、あきらめて生きてきたと感じます。一応はかなり不幸になるように頑張ってきましたが、何かが許された感じもありません。
気になるということはやることがあるのだと考えるようになりました。
そんなことがありながら、2月は、これまで自分にとってはお目にかかったことのないお金持ちの方にお目にかかる機会が数回ありました。お金はあるところにはあると納得します。お金もちのお家に生まれていたり、価格帯の高いものを扱っていたりすればそのくらいの流れは当たり前のことなのかもしれませんが、月収1000万は大きいと感じ、その方の雰囲気や在り方などから、こういう空気感かと学びました。また、別の方には、まったく繋がり無く別の業態やシチュエーションでありながら4千万円入っている通帳を見せていただき、これも、きっと大企業の退職金はじめ、普通にあるところにはあるものだろうけど、私にとっては珍しいものなので、その方の身なりや振る舞い方、持ち物など研究しました。お財布には、ほっぺたをふったける厚さのお札がキチッと整えて入っています。
三鷹市公会堂は8時だヨ!全員集合の最初の収録の行われた現場とお聞きし、とてもワクワクしました。下品なネタもありますが私はおもしろいコントがとても好きで、親戚で集まるとドリフターズのコントの再放送をいつも観て大爆笑していました。その後の80年代の加トちゃんけんちゃんごきげんテレビというのも大好きで、『好きなことを』と言われたこともあり、スイカ男という有名なコントなどを振り返っていました。まるで小泉八雲の怖い話のような笑いの在り方を考えます。その時代あたりにはすでに先生と高麗さんは出会われて、いだきを始められたころでいらっしゃるかと感じるとさらにときめきます。笑いは、生きていける在り方あってこそのものであり、何かから目を逸らしたり逃げたりするものであっては、これからの時代はなりません。
かなりうまくいったと止まる暇なく、それもいままでが不幸すぎたためにうまくいったと思っているだけで全然目標にも足りていませんので、巡礼という動きをしていきます。ありがとうございます。