楽しく一つ一つやること
お優しい方ほど何事も「自分のこと」と捉えるので、表現はいつもそのお優しい方々の笑顔やぬくもりを心に置きながらしようと思いつつも、それができにくくなるのは非人間的だったり暴力的だったりする環境に遭遇したとき。自分の中にもある『自分こそが主語』の状態と反応し、混乱した内面と複合し、暴れ出す。しかしよく考えてみよう。先生はいかに酷い環境を次々と変えてこられたのか。高麗さんはご自分の生きられる環境をつくるためにどれだけ世界の状況を変えようとなさっているのか。酷い場に遭遇してもそれでもなおその場を変えていく強さがある。鍛錬がものをいうのである。見習わずしてほかに何をする?
東北センターの催しではご質問者の方の「グリーンちゃん」という言い方が可愛らしく、緑の豆のような力持ちの生き物を連想しました。『馬鹿力 傲慢足れば 転げ落ち 地獄の谷も 深さ幾倍』という狂歌をつくりました。いだきしん先生のもとで新しい生き方を学ぶことができ、人と生きていくぬくもりに感謝致します。
物分かりよくしているようでも何か大切なことから目をそらしていると存在全体が重く暗くなるようだ。その大切さを見つける感性を養う道は人として生きること。基本は万人共通なんだとわかり、満ちる、生への意欲。
たくさんのことを学んだ東北センターの講座でしたが、意識の中で最も心に残っているのは先生の『死について』における「楽しくひとつひとつやることが身についていない」という言葉なのでした。私も全然身についていないです。ご飯はさっさと食べて早く部屋にこもりたい、さっさと一人になりたいと感じる生活は小学校高学年から高校生までと結構長かったです。母と祖母が女性同士ピリピリしていて、父は大人しいけどなんだか偉そうで(どう見ても私そっくりです!私が父に似たのか。二人とも講座を受講させていただいているので今もって生命があり、態度も当時よりはなんぼか緩和されているはずです。すみません。)さっさとお部屋に戻って好きな音楽を聴きながら漫画を読みたい気持ちは昨日のことのように蘇って参ります。懐かしいです。家庭内暴力等があったわけでもないので、見た目に問題があるわけではないという、真綿で首を絞められるような病。少子化である今日、当時の私と同じように過ごしている中高生なんて当たり前にたくさんいらっしゃるんだろうなと・・・。
食事の支度、食事、後片付け、などなどをはじめ日常から仕事まで、丁寧に楽しく一つ一つやることが身につくのは人間的で素敵と感じます。きっと先生や奥様、ご家族がたは、そのように楽しく暮らしてこられたのだろう・・・と涙滲んでしまうのでした。
応用コースでお聞きしたSVOはかつて得意とするところでした。さらにSVOC、SVOOと強化されていくものもしっかりと学び、なんとか一人勝ちしようとする精神を養い続けたのでした。しかし実際は勝ってもいません。私は日本人です。いのちが日本人なのに、合わない文法を使っていたら、当然苦しくなってきます。合わない言語を使い合わないことをしていたから苦しかったし上手くいかなかったんだとわかり、謎が花びらのように解けて舞うのでした。日本人は日本人にあった言葉、文法を使うことが大切とお聞きできて救われました。統治のしかたに「しらす」と「うしはく」があると人から聞き先日知りました。「しらす」は民と一つになり国を治めること、「うしはく」は民を支配すること。高句麗王の在り方は「しらす」的であり、日本語的であったことからも、現在の日本というものは想像以上に高句麗とともに成り立ってきたのだろうと、背筋が伸びます。
本日は謹んで参加をさせて頂きます。有難うございます。