KEIKO KOMA Webサロン

有限の生


京都にて、ミーティング、応用コース、存在論に参加させていただき、ありがとうございます。

ミーティングに参加し、しゃくやくの会が機能すれば日本の国造りとなっていくように動きたいと考えます。高麗さんが三鷹で高句麗伝説を開催されたことの意味とこれから未来に開くこと、土地に生きてこられた先祖代々の歴史的なことをお話から感じます。全てがわかるはずもありませんが、関わらせていただく以上、良く理解できるようにします。昨日の高麗さんの書き込みを読ませていただき、他の何をやっても虚しいとあり、その通りと感じます。自分は感受性が悪くて心が貧しいから、喜びや幸せを感じられないのでは無いかと考えていました。やることをやっていないからつまらないのであり、世界平和に向かいやることがあると言葉にすると、涙が溢れます。何という、人生でしょうか。

応用コースでは、礼儀の礼は禮という字がもともとの字で、豊かさを示すという字が禮であり、禮がないのは、人間として貧しいとはそのまま自分のこととして考えます。型通りのことに何でも反発する子供っぽさは、意味がわかっていなかったと感じます。人として豊かな人と人が、自分と同じように相手を大切にする気持ちを現し、禮儀ができればエネルギーが大きくなるとは納得できます。禮儀を身につけるのは簡単なことではないのも、わかります。敗戦後、当用漢字にしたことから言葉がわからなくなっていき、日本の精神を失うことに加速がついていくことも、意味を失うので、わけがわからなくなるので当たり前だとわかります。礼の字は、「ふだ」でもあり「お金のさつ」でもあることから、礼儀をすり替えていく字です。表面だけ作り、中身が無い民族に落ちてしまっていることは社会に出れば感じることで、態度がぞんざいになると、病気がどんどん増えることも予想がつきます。最近コーヒーとチケットを持って社会に出て、若い方々と会うと、「ブランディング」が流行りのようで、自分を表面的に見せていくことでお金さえ稼げれば良いという風潮を強く感じ、その軽い言葉に心が暗くなり、大人である自分の生き方に責任を感じます。今日は禮儀の始まりである挨拶の大切さを知り、キチンと挨拶ができるようになりたいです。先生が、どうやってピアノを弾いておられるのかをお話下さいました。確かに今まで、どうやってあの演奏なのか?とふと考えることはあっても、自分が弾くとしたら?と考えたことはなかったです。一音から広げていかれたお話から、今の演奏を考えるとすごいことと感じます。そして、今日の演奏があり、次の演奏があり、どんどんと変化され、一回でこなくなるのもわかってないし、一回でわかった気になるのもわかってないとは合点がいきます。この一回があるから次の演奏があることのすごさが、良くわかりました。

存在論では、イエスが最後の晩餐の後、神に祈るので弟子たちに起きているように言ってもぐっすり寝入ってしまい(それは「気遣い」が足りなかったからと言う理由)、イエスが十字架にかけられ殺されてから、自分たちの罪の深さに弟子たちに「良心」が生まれてそれが人間性を取り戻す手がかりと感じます。先駆性ということ。死ぬことがわかれば、生きているうちにやろうとすること。死ぬことから考えれば、生きているうちにやるべきことをやろうとします。死ぬことがわからないのは、死なないと思っているのと同じです。死なないなら、今やる理由も無いです。自分は、死ぬことがわかっているだろうか?怪しいです。観念があると言うお話は、刺さりました。いい物持ってるから、いいことやってるから大丈夫って奴がいるだろう、とは私にもそういうところはあります。なぜだろうか?考えます。

今日も一日、多くのことを教えていただき、考える機会をありがとうございます。

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狛江エコルマホールにて
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8月6日
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府中の森芸術劇場どりーむホールにて