日本語
日本人なのだから日本語は自分の中にあるはず、とそう思いながら、ヒントが欲しくて書店を歩き回っていました。一冊の本を手に取り開くと、先日お聞きした日本人の馴染む電車の「ドアが閉まります。」と、西洋人が使う「ドアを閉めます」の視点の違いを述べる記述があり、また別の記述では、日本語で描かれた世界観を英訳した文章を読み、そこで受けた印象の差には驚かされました。その他様々な本を見る中でも現在に至っても国語教育は西洋の文法にならい、主語-述語を指導していることを知りました。学校でよく主語がないとか、主語が違うとかで添削されたことを思い出します。英文法的な意識では自分のことを表現するのに自分を客体化して外から見て表現したり、そのような意識で物事全般をとらえていたのだと気づき驚くばかりです。類は友を呼ぶというように似た者同士で何ら違和感なく生きていたことも驚きます。言語で物を考えていくので、言語が違えばその思考や意識はまるで違うものになっていくことの意味もやっと理解できるようになってきました。進むことも戻ることもできずに放置していた暗い部分に陽が当たり、太陽に向かって植物が伸びていこうとするように、どこへ伸びていったらよいのかその確実な方向性がわかりはじめ、学ぼうという意欲が内側からふつふつと湧いてきました。文学や小説になじみにくい感覚も自分の言語に問題があったと気づきます。自分のノートに心に感じるまま書き始めると予想もしない表現に心洗われ明るくなり前へ進む力が湧いてきました。英語が世界共通言語とし力を持つようになった背景にも権力や世界の支配構造を感じ、自分はまんまとはまっていたと感じます。余計なことを考えずにひたすらに日本語を読んでみようと感じる今です。