新生
19日の府中の森コンサートの二部で、生まれてはじめての経験をします。生命全体が滝となったようでした、その状態で参加させていただいた20日の三鷹コンサートでは、頭が痛いまま参加しました。私はいつもの聴き方をなぜかやめて、ずっと目を開けて舞台をみながら、全感覚を開くようそこに居ました。一部では途中からいきなり宇宙のど真ん中にか放り出され、そこに存在していました。二部では、無重力の愛の状態の経験に、命はどこにもいけなく、ただ、そこにいるよりない、愛でした。目を開けて、全生命の全感覚を差し向け、音をあびるようにひとつにいたのです。ピアノの繊細な音の表しに聖なる愛が指使いから流れ、涙がこぼれました。これほどまでに世界への愛を表されている瞬間瞬間にでくわし、世界に伝わったと言葉になりました。
私は二部の経験で意図もなく生まれた言葉がいくつかあるのですが、それにより、疑問に感じる事を解決していきたく試行錯誤しながらですが、翌日の今日から行動を変えています。コンサートで生まれる言葉は、このような変え方をしていく原動力なのだと感じます。コンサートに参加することの意味が人生を変えるほどのことであると、7月の開催はとくに色濃く感じています。
先生にお会いする生のコンサートの深いことが、証明される気持ちです。本当なら、東北でプロジェクトを地元の各地方の方々が組んで下さってもいいのではないかと感じてしまいます。人の生命が助かっていく、先生のピアノの音があり、皆が抜け出せ幸せに気概を持って生きていける可能性が満ちているのです。
先生のコンサートをぜひ、地元からぜひ要望して下さい、と仙台のある方に言っていました。
今日は朝早く起きると、自転車で高句麗の風新聞をお手紙と一緒に、先日のお電話させて頂いた方に、お送りしました。お伝え出来る方がおられることに感謝しています。ありがとうございます。