新たに共に生きる
昨夜、8月28日の高麗さんのビデオ講演会をお聞きしていて、「私は迎賓館で先生の言葉を何一つ聞いていなかった。」と、愕然としてしまいました。一体何を聞いていたのだろう。何かを分かりたくて、必死で言葉を一つも漏らさずに聞こうと、分かろうとしている尻から、記憶が残らず言葉が零れ落ちていく感じ。講座であれば、必死にノートに書き留める事が出来ても、迎賓館ではそうはいきません。ひたすら先生の顔を見つめ、先生が言葉の間に頷かれると、なぜかどぎまぎと狼狽えていた自分を思い出していました。高麗さんの「過去の整理、過去はいらない」の言葉が妙に頭に残っていて、今朝起きると突然ノートに書き始めていました。愛犬とは16年10ヵ月、ずっと一緒に共に生きてきました。誰よりも私の事を見つめ続けてくれた大きな存在。その愛犬の死に対して、「もっと悲しまなければいけない」「もっと辛い思いをし続けなくてはいけない」「忘れてはいけない」「不幸でなければいけない」と、妙に自分に何かを強いていなかっただろうか。或いは、思い出というまやかしの中にしがみついて、もがこうとしていたり、がんじがらめにならなくてはいけないと、勝手に自分を「ねばならない」と抱え込んでいなかっただろうか。次々と言葉が出てきます。おかしい、何かが違います。亡くなる前日8月15日の朝焼け空、一陣の風が教えてくれたのは「何かが終わり、次に向かっている」でした。言葉通り、愛犬は翌日16日に亡くなりましたが、最後の最期まで彼は「生きる」という未来に、矢印の方向が向かっていました。彼が自由に羽ばたいていったように、私も今その時を迎えているとしたら・・・数日前に、思い出そうとしないと思い出せないと正に書いていたように、頭だけが過去に戻ろうとしていたに過ぎないのではないだろうか。既に、新しい次の何かに向かっていたのだとしたら・・・ジグソーパズルのピースが綺麗にはまっていくかのように、辻褄があっていきます。迎賓館のコンサートで聞こえた愛犬を呼ぶ私の声は、悲しい過去に戻るものではなく、新たなスタートを切るものであり、高台寺で見たあの光景に現れていたのでした。次に向かうためには、区切りをつけなくてはいけません。今、私の中で16年10ヵ月という大きな区切りを愛犬と共に経験しました。新たに共に生きる人生が始まりました。こうして認めてみると、勝手に自分でこしらえた大きな重荷からやっと解放され、ほっとする安堵感に包まれます。笑顔で笑っている愛犬の写真に、「ありがとう」と笑顔で言える今に感謝しかありません。先生、高麗さん、ありがとうございます。