新しいはじまり
明けましておめでとうございます。
元日より、迎賓館でのコンサートを視聴させて頂きまして有難うございました。
本日のロームシアターでのコンサートに参加させて頂くため、いま新幹線で向かっています。パソコンを持って行くかどうか迷ったのですが、思い立ったときに書き込みが出来るし、何か書くことが出来るから持っていくことに決めました。いま新幹線の中で書いています。(正確には、キーボードで打っているのですが)
呪いのお話をお聞きしまして、高校入学以降から始まりIDAKIに出会うまでずっと続いた、あの死ぬほど苦しい時間のことが、思い出されます。
国語の授業で大学受験に備えて小論文の授業があって、課題となる文章が示され、それについて自分の考えを○○字以内で記さないといけないのです。課題となる文章は、いつも新聞記事のような無味乾燥な文章で、読んでも何ひとつ心に響かず、これについて何を書けというのか?・・と今はこういうふうに書けますが、高校生だった当時の私は、課題の文章を見つめてただ苦しさだけが胸にこみあげて気がおかしくなりそうでした。苦しんだ挙句、いつも白紙で回答を出していました。ある日、国語の先生に声をかけられ、何でもいいから自分の思っていることを書いてみろ、と言われました。それで、何について書いたのかは忘れましたが、この先生なら私の苦しさを分かってくれるかもしれない、という微かな期待があったのだと思います。何か怒涛のように白い紙に書きまくって先生に渡しました。それを見て先生が「ほう・・、頭が空っぽなわけじゃなかったんだな」と軽く言ったその一言がショックで、あんなに苦しくて何も書けない私の心の状態に対して、国語の先生は「この子は頭がからっぽだから何も書けないのか」と思っていたことがショックで、この先生なら自分の苦しみを分かってくれるかもしれないと微かな期待を抱いたことがあまりに悔しくて、頭が真っ白になりました。
しかし恐ろしいことに、それ以降「私は頭がからっぽなんだ」と、自ら言い聞かせ始めるようになりました。
何も話せず何も書けなくても、本を読むことだけは好きで、図書館に行くことはもちろん、学校の帰りには自転車をこいで町中にある紀伊国屋書店まで行き、文学書のコーナーをぐるぐる回って本を物色するのが楽しみでした。
しかし、国語の先生の一言があって以降、何かこれという本を手に取って開いても、「私は頭がからっぽなんだから、読んでも無駄」とか「頭がからっぽでバカのくせに、こんなの読んでいい気になってるんじゃない?」と、楽しもうとする心を自ら打ち砕くようになりました。自分を否定することがこうして始まり、家族からも生まれた土地からも離れたくて、遠く東京へ出ては来ても、心の苦しみは何も解決されることは無く、それはIDAKIに出会わせて頂くまで続きました。
あまりに苦しかった長い長い時間の、その始まりのことは、ずっと心にありましたが、それを表現することはありませんでした。今、書くことが出来たのは、元旦に迎賓館でのコンサートを視聴させて頂き、いだきしん先生の、呪いについてのお話と、いだきしん先生と高麗さんの対談をお聞きする中で、国語の先生の記憶を書かずにはおれない、とても強いものが内側からこみあげてきたからです。しかし、誰が自分を呪うというのではなく、誰かから呪えと言われた訳でも無く、自らを呪う、それも命絶え絶えになるまで呪う・・・そういう状態に陥っていたことは、書いている中で急に「あっ!」と気づいたことです。
もしパソコンをもって新幹線に乗らなければ、そして書くと決めてキーボードを打ち始めなければ、心の中でいつまでも国語の先生の記憶がぐるぐる回り続けるだけで、呪いのお話については分かったつもりになってしまい、明確に呪いに気がつき、はっきりと切り離して決別し、新しくスタートすることは出来ませんでした。
私にとり、書くということはとても大事であり、いのちを生かすことであり、生きることそのことです。
本当は、新幹線の中では本を読むつもりだったのですが、なぜか忘れてきてしまい、重いから持っていくのを止めようかと思っていたパソコンを持ってきたことに、自分の真の意志があったのだと分る今です。本当に何ひとつ言葉が発せず、書けなかった私がこうして、自分のことを表現することが出来、しかもそれを表現させて頂ける場がありますことに感謝申し上げ、新たな出発の、本日のコンサートに参加させて頂きます。
ありがとうございます。本日もどうぞよろしくお願いいたします。