救済
中秋の名月の日に、仙台にてのコンサートを開催させていただく巡りに驚き、ただならぬ導きと感じて迎えたコンサートです。それも今年は満月と重なったのです。昨夜のニュースは、この話題ばかりでした。私には先生のコンサートが開催される特別な日であることを、中秋の名月は満月であることを意味することではなく、今年は特別に満月なのです、という表現で伝えているようにして聞こえてならずに、一人心の中で微笑み、心ときめいていました。
メッセージもずばり「中秋の名月 8年目の満月」でした。
「「巡りの良いことがあきらかに好運につながります。「巡り」の良し悪しは生まれつきによって決まっています。せっかく本当に巡りよく当電力ホールにて中秋の名月、しかも8年目の満月の開催できます。なんという「巡り」でしょう。宗教的な信仰心などなくても「巡り」の良さを否定はできないでしょう。「巡り」の良さを活かせなかったら何をもって活かすことができるのでしょう。中秋の名月は日本全国に渡り楽しむことができます。困った時には神だのみなども思ってしまいがちですが、自然の「巡り」「恵み」を活かして好運を活かすことです。」
私には満月が語り、時には先生の奥様晴美さんが語りかけてくださっている音と聞こえました。神の姿、あり方を学びました。私は、角が出ているような自分のあり方が辛くてなりませんでした。皆様にご挨拶している時もいろいろなことを感じています。多様性を理解することが難しく、私の主観で挨拶をきちんとできない人は何故なのかと考えたりしてしまいます。その感覚は自分の内で良いこと、悪いことという基準がはっきりとある故と気付き、様々な場面でも私には非常識と感じたり、礼儀がないと感じることが多いです。何事につけても良し悪しがはっきりあり、悪いと感じることは受け容れがたいです。こんな自分がとても疲れました。晴美さんだったらどうされるのかと考え続けました。ただただ美しいままに在り続ける生前のお姿が鮮明に浮かび、涙こみ上げました。周りの人がどうであっても、このように生きていくことが真の人間と考えます。昨夜ずっと道中共に在ってくださった満月もとても深い静けさに満ち、ただ在るだけで、心が澄み、美しい心を取り戻す存在でした。今日の演奏からもずっとお月さまが共に在ってくださり、美しく生きること、真に生きることを教えてくださいました。涙によって私を取り巻いていた透明なガラスのような輪っかが取れたのです。その輪っかを言葉にするなら選民となるのです。私は神に選ばれた人間なのか、と驚きながらも、悲しみの涙が流れ続けるのです。こんな悲しいことはないといいようのない胸の痛み、辛さに涙するよりないのでした。
第2部は「宮城の神秘は深まり」
「一過性に神秘などという形容はできません。次元を超える続きがあります。絶え間なく未来、未来とのびてある時、一挙に飛躍します。人それぞれには様々な事情があり存在する状態も違います。一挙といっても全般的に一挙に期待することは無理です。お一人お一人の命のあり方が今までのことを乗り越え、真の人生を進む機会を得ました。神秘な光満ち、垣間見る月に月の光はお一人お一人にやさしく語りかけるように輝きます。「中秋の名月、8年目の満月」この日にあやかり飛躍する人生であり愛です」
メッセージを読ませていただき、前回出会えました宮城の神様が「次元を超える飛躍」を教えてくださるのだと、真の人間のあり方を教えていただきたく、涙がにじむほど、求めました。予想外の自分の反応に戸惑うばかりでした。角がたくさん出てくるのです。一部で抜け出したと感じていたのですが、再び善し悪しについて頭にうかんでくることがあります。どう考えても悪いことはしていませんが、先生に否定されていると思う頭が角を出してくるのです。図形では先生は誰も否定などする訳もなく、どのような状態であってもすべてを受容され続けておられるのに、何故否定されていると思うのかを考えれば、第一部で見えた選民意識が頭の天辺にあるのです。私は意志が強く、譲れない芯があることを否定されたら生きていけないことを自覚しています。仕事も営業で鍛えてきましたので、当たり前のルールはわかっているつもりですので、関わる人達の私の表現では非常識と感じてしまう事柄に対して、内面を問い続け、整理しても自分が悪いとすることはできないのです。いつも自分が正しいか悪いかと考え、自分は悪かったら、全て変えていかねばならないと極端に考え、ゼロか100点かとなるのです。思い出せば、学生の頃のテストが100点かゼロ点であったと苦笑します。いだきの仕事をさせていただき、正しいことを嘘偽りなく、仕事とし行えるので、こんな自分も生きてこれました。何かを誤魔化し仕事をしなければいけないなら私は生きていけません。この生き方を悪いとは思っていませんが、先生のピアノの音は頭を叩かれているように聞こえ、辛くてならないのでした。私が悪いのならすぐに直しますが、何が悪いかわからないのでした。加えて神と先生の戦いのように感じる辛さがあり続け、先生と戦う神とは神といえるのかと疑問になります。私は先生と戦うなら、明らかにおかしいことだけはわかっていますが、何がおかしいかをわからない状態であるなら、死んだ方が良いと考えはじめるのです。昔から極端な人間です。良いか悪いか、のどちらかよりなく、悪いなら死んでしまいたいと死ぬことばかりを思うのです。いつも神様に認めてほしくて頑張ることにほとほと疲れ果てました。私が神とおもっている存在に認めてもらえなくても私が良くても悪くても私を受容してくださっている全体である存在が空間に満ちていることがわかり、死んではいけないと強く自分に言い聞かせ、受容していただいている生命は生きていくことが答えとは明らかにわかり、全体に身を任せ、救われました。コンサートが終わり、拍手をしている時、我に返ったようでした。大地に足をつけ、ここに存在する自分を確認しました。自分はどこへ行っていたのか、どんどん死への世界へひきづられるような辛い苦しい世界に閉じ込められているようでした。終わった時、「究極の神にはかなわない」とつぶやいていました。演奏からは神様の固まりが見え、とても苦しそうに見えました。先生と晴美さんがひとつになりこの苦しい神の固まりには屈しない揺るがぬ姿勢を見、私は、申し訳ないばかりで、どうしてよいかわからずに、死へと誘われていくなんとも表現しがたい世界から抜けられないのです。最後に全体に受け容れられている限り、生きていくことが礼儀、と我に返り、生命の奥から救われたと安堵しました。究極の神とは先生の存在です。すべてを受け容れられている全体の空間も先生が表現されているので、受容空間となっていることは身をもってわかっています。私と共に在った神は私を閉じ込め、死への世界へと誘います。閉じ込めたくてしているのではなく、神そのものがそのような状態であったのだとわかるようになりました。その状態は死ぬよりないのだともわかりました。私は中秋の名月、満月と重なった今日、仙台の地にて、いだきしん先生のコンサートを経験させていただいたので、魂は救われたとわかりました。なんとも理解し難い驚くべき経験でした。まさかこのような経験となるとは、メッセージからは想像すらできませんでした。先生からお話を伺うことで秘密の暗号が解けていくような体感がありました。自分では理解し難い経験でしたが、生命が救われたことは生命でわかりました。仙台に来なければ、このことが生涯解けずに死んでいったと考えますと、ここまでこれましたことに心底安堵します。常に様々な困難はあり、辛い時や苦しい時もありますが、活動をやり続けて行くことが生きる道を作っていることに感謝します。生きる道だけではなく、死んだ後の道も作っているとわかる今日の経験でした。中秋の名月、満月の今日という日を生涯忘れることはありません。
今も尚、呆然としていますが、日付けは今日となりましたが、結工房での先生の焙煎日です。午後5時で閉店となりますので、よろしくお願いします。
ありがとうございます。