愛
第一部「日霊女」(ひみこ)
魏志倭人伝に記されている「卑弥呼」の文字ではなく、
「天」をあらわす意味での「日」と「巫女」をあらわす意味での
「霊」と「女」と書いて、「日」の「霊女」で
「日霊女」(ひみこ)です。
これからの日本のことを考え、この日本で生きる上で
古代史を正しく知ることが近々の課題です。
古事記、日本書紀によっては正しく理解できません。
はじめのこと、もとのことが正しくわからなかれば、
今生きる我々の命もよりどころを見失い、
確固たる意志、即ちしっかりした気持ちを見失わずに生きられません。
本日は、古代からの狂いを正しく調整します。
むかしむかしあるところに・・・で済まされることではありません。
「日霊女」の皆が幸せに生きていくための
天から受け継いだ情熱が伝わるでしょうか。
やがて出雲の国のスサノオと会い大和ははじまりますが、
それはこの後のこと。
第二部「新たな時に」
ここで云う「に」について、上代より用いられている語、
動作の目的、原因とか理由に使われます。
現代は個々人の個のあり方、生き方がごく極めて普通に問われています。
一人一人戸惑っている間はありません。
上代の日霊女、スサノオの精神は
皆が幸せに美しく生きるということが中心の課題でした。
今や我々に問われていることは、
遥か昔の上代のこととつながります。
感動のコンサートに涙が止まらず、号泣までしてしまいました。メッセージにありました「古代からの狂いを調整」していただいたことで生まれた時からの限界にある状態から抜け出せるとは夢のようです。生まれつき目に見えない世界が見え、この世で生きることは精神が分裂しそうで、いつもぎりぎりの際どい状態でありながら父母に支えられ生きてこれました。やっと先生に出会え、社会の中で自分を実現しようと生き始めることができ、今に至っています。先生に出会っていなければ生きていけない状態でした。第一部のあまりにやさしい音色、メロディーに全て受容していただき、涙ばかりが込み上げました。分裂するか否かのぎりぎり限界の状態が現れていたのです。悲しみ、辛さ、言うに言えない苦しみ等々が吹き出し、泣くよりない状態でした。ピンクの光を放つ「日霊女」さんのあまりに眩しい美しい存在に勇気づけられます。強く美しいです。魏志倭人伝の「卑弥呼」ではない文字を示したいただき、存在がわかります。「「日霊女」の皆が幸せに生きていくための天から受け継いだ情熱が伝わるでしょうか。やがて出雲の国のスサノオと会い、大和ははじまりますが、それはこの後のこと。」のくだりにはワクワクしました。「皆が幸せに生きていく為の天から受け継いだ情熱」とはなんと素晴らしいことでしょう。感動します。十分伝わり、自我という限界を抜け出せました。私は幼い頃より世界の平和を願い、祈り続け生きてきましたが、自分の内には破壊的なものがあることが苦しく、心は平和を望んでいても、平和を作れない内面にある歴史の闇が苦しく発狂しそうになる時があります。今日の演奏でお会いできました「日霊女」さんのように生きていければいいと望み、演奏を聴かせていただきました。以前招かれてインドに初めて行った時、シーク教の寺院に連れて行っていただきました。突然のことで訳がわからずに、私はインドの方の指示に従い、床に頭をつけ、体を伏せたのです。お祓いとお聞きしました。後から、お祓いをされた御方はシーク教の最高僧侶であり、普段は出てこられない御方が私が行くと突然出てこられお祓いをしたというのです。そして私のことを一切の我がなく、世界の平和の為だけに生きはたらいている人とおっしゃってくださったと聞きました。大変うれしいお言葉でしたが、先生が笑いながら世界の平和の為だけに生きる我とおっしゃったのです。あまりに図星で笑うよりありませんでした。今日は世界の平和を願うのも実現に向かいたいと望むのも我であると甚くわかる頭の反応に苦しみ、発狂しそうな苦しみに襲われました。なんとかしたいとかわかろうとすることも傲慢であり、ただおおいなる存在に身を委ね、心を任せるよりない程に苦しみました。心身を任せると、頭の天辺にあった壁が次第に溶けていき、天がひらいたのです。やっと空間とひとつの頭、自我となりました。2部でもわかろうとすると疎外され、苦しく悲しく涙ばかりがあふれました。わかろうとしてもわかることはないことを身にしみわかりました。ここに居ればわかるだろうとどこからともなく聞こえ、ここに居ることに集中しました。涙よりなくなりました。私が愛の風と呼ぶ演奏となると号泣してしまいました。ここでなら生きていけます。愛はすべてを受容していけます。コンサート前は受け容れることについて考えていました。愛があれば受け容れることができます。幼い頃から頭に刻まれた自分は罪深い人間という意識が涙と共に溶けていきました。歴史を背負い生まれたので多くの罪を背負っていると思い生きてきたのですが、先祖高句麗のせいにはしたくない気持ちがあり、生きている内に自分の罪、穢れをなくし美しい人間となりたいと切望し生きてきました。今日は人生の総精算と感じます。第2部のメッセージの中に「上代の日霊女、スサノオの精神は皆が幸せに美しく生きるということが中心の課題でした。」に心打たれ、このことを心に聴かせていただきました。これ以上ない迫力で邪と闘い、愛の世界に引っ張り込み、すべてを愛に変えていくはたらき、有無を言わさぬ愛の力に感服します。ここにいればわかるのが人間とは身をもってわかりました。愛により歴史の影も闇も重荷も溶けていきました。上代の方が皆が幸せに美しく生きることを中心の課題とし国創りをしてくださったのに、末代に生きる私達は歴史の闇を背負い、生まれるのです。悲しい人間の歴史です。先生がおられる今だから運命を解放していただき、美しい生命となれるのです。感動の極みとなり号泣しました。
そしてなんとラストアンコールはアリランを想う大好きな演奏でした。私は高句麗を感じます。演奏がはじまった時、「高句麗」と心の中で叫びました。私には美しい高句麗が宿っていると涙しました。天と共に生きた美しい高句麗人の輝きに涙ばかりがあふれます。私も天と共に、拓かれた更に向こうのはるか彼方とつながり美しく生きていきます。希望と愛よりない渾身の演奏に深く感謝します。そしてこの経験は世界中の人と経験したいと心の底から望みます。ありがとうございます。