KEIKO KOMA Webサロン


仙台コンサートに東北の方、各地からお越しいただき、皆様と共に愛を経験できましたことがありがたく、感謝します。東北は大変な状況であることを昨日、仙台に着いてから身に感じていました。今日もコンサート前は身が傷んでいました。人通りも少ないですが、全体的に沈んでいることがなんとも寂しく、悲しいです。先生のコンサートが開催されますことだけが希望であります。今日も大変かけがいのない経験をさせていただき、こうして書き込みをさせていただけますことは真にありがたく、しみじみと感謝の気持ちがあふれてきます。

第一部「神は非礼を受けず」

「論語の八佾に、礼儀を外れたことを願って祀っても神は受け入れない、とあります。神は、神を祀るべきではないと邪悪な人間が祀っても、その心を受けないという意味です。今日のテーマは神をテーマにしようとしているわけではありません。神を「愛」におきかえて「愛は非礼を受け入れず」というテーマにしたのですが、どういうわけか「愛は非礼を受けず」という言い方はありません。愛の何たるをわからないままに無礼極まりないです。「愛」は言葉によって蹂躙され「愛」はますます遠い存在になっています。しかしながら、「愛」なくして何事もなし得ないのです。神に受け入れられないことを天罰といいますが、「愛」なき人生は何といえばいいのでしょう。「愛」なき人生はありません。とくと人生をお考えください」

第2部「愛の充足をめざして」

「「愛」には切れ目がありません。「愛」について様々に学び、「愛」のルールブックみたいなものをつくり、一生懸命まもり、実践、実行しても、「愛」については何らわかったことにはなりません。「愛」の道理は切れ目がなく、内面は言うに及ばず全身に充足していきます。一瞬の切れ目が、とりかえしのつかない種々様々な問題を起こします。切れ目がないのが「愛」です。「愛」は次元すら超えます。愛しあえる「いのち」で生まれたのが人間です。」

コンサートを経験させていただきました今はメッセージの意味が生命沁み理解できます。一部は第一音から深く豊かで厚い音が、愛の川が流れているように見えました。この素晴らしい愛の音を見ていることよりもただただお聴きしていたい気持ちで愛に包まれ心地よく聴かせていただきました。愛がわかると、昨日から今日にかけて起こったことで少し気にかかっていた事の答えが見えました。愛がわからない故に曖昧であったと気づきました。少しの気になることは気にしないようにしたり、マイナスな感情や感覚、意識は付き合わないようにし、本音で生きることに努めてきました。が、最近は空間が素通しとなっているので、内にたまっているようにあることを自覚するようになりました。故に毎日、本気になり内面整理をしています。コンサートにて先生を前にすれば尚更、潜んでいるものも浮き出てきます。愛に満たされてくると、気になったままで解決していないことの中身がよく見えてきました。わかれば愛と乖離するものはなくなっていきます。この経験こそが解決であると身をもってわかりました。愛を経験すれば全ては解決するとわかります。無残な事件が多い今、人間の内面が過去から解放されないと、いつ内にある運命の因子が発動してしまうかわからないと恐れを感じます。私は先生に出会い、内に宿る運命を解放していただいていますので、耐え難い苦しみがなくなっていることがいつもありがたいと心底感謝しています。内に潜む邪がいつなにかをきっかけとし発動してしまうかと過去は恐れていました。愛でないことを愛という言葉を使ったことにより、恨みとなり、何かのきっかけがあれば爆発する爆弾を抱えていたようなものだと気づきました。私は救われたと涙にじみ感謝しました。生きていれば、先生が解決の時を作ってくださることにただただありがたく涙よりないのです。愛でないことを愛という言葉を使うことは人生の不幸を招きます。コンサートでは愛と交われない作り物の愛が離れていき、壊れ去り、愛に満ちる生命となりました。先生のコンサートで愛を経験できる私は真に幸せであると涙にじみ感謝しました。コンサートで経験する愛を認識できることもありがたいと感謝しました。コンサートを経験しても愛もわからなければ、自分のこともわからないでいる状態は悲しいと感じます。何より先生の演奏がわからいことはこれ以上ない不幸と感じます。ここに身を置ける人は幸せですが、身を置けない多くの人は悲しいと涙こみ上げてきます。心の底から世界中の人に愛を経験する先生のコンサートを経験していただきたいと願いました。演奏中、ずっと愛を経験していました。人間とし生まれたなら、この経験なくして人間とは言えないと感じ、また生まれてきた意味がないと感じ、涙しました。ふと一度もコンサートを経験していない長男を想いました。同じ親から生まれ、私はこんなに幸せを経験できているのに、一度も経験できないことに悲しみを感じ、涙しました。私のやりたいことは世界中の人にこの経験をしてほしい気持ちを実現することです。

今日は礼儀とか自分が失礼なことと感じることについて考えていました。「神は非礼を受けず」というメッセージタイトルは私にはどんぴしゃりと感じるメッセージでした。勿論自分は神ではないので、神は非礼を受けずという表現の中身とは違うのですが、愛に満ちる経験をさせていただく中で、自分の曖昧であったことが整理されました。人に対して失礼だと感じる時に自分の内面を整理し、そのように感じることをなくそうとしてきましたが、相手が失礼なことをしているなら失礼と感じることは当たり前の反応とわかります。何事も正確に理解し、自分がどう生きるかが決まれば、先へ進めます。

2部では演奏を聴かせていただきながら、気づけば愛は何かと考えるのでした。一部のメッセージの中で、「愛は非礼を受けずというテーマにしたいのですが、どういうわけか「愛は非礼を受けず」という言い方はありません」という内容がよくわかりました。神は愛とか、神は何という頭になっていることに気づきました。「愛は言葉によって蹂躙され、愛はますます遠い存在になっています」という表現がよくわかる経験となりました。言葉によって蹂躙されてしまった結果、愛を表現できなくなっていることには愕然としました。が、このことに気づけた時、閉ざされた頭がひらいたような感覚となり、頭に光が差し込みました。とてもうれしく喜びあふれました。同時に演奏が終わりました。大拍手です。そしてアンコールのアリランの歴史的な音には魂震えます。聴いたことのない響きと音に歴史のロマンを感じました。歴史のロマンの風が吹く空間に身を置き、時空を超え生きる存在となり、幸せでした。コンサートの場に容れることが幸せであります。一生懸命に先生のメッセージをわかろうとお聴きしていますが、ここに居るだけで愛をわかることができています。演奏をお聴きしていることで愛を経験しています。やはり、私のすることは世界中の人に先生のコンサートをお伝えし、ご参加いただくこととわかります。愛をわからずして生きることは不幸であり悲しすぎます。

外は吹雪となっていました。明日は盛岡に行きます。コンサート同様に、先生の応用コースの場に容れるだけで愛を経験しています。なんとかけがいのない人生でしょうか。気持ちと頭はどんどん人様にお伝えしていくことばかりを考えます。動くのみなのです。世界中の人が愛を経験すれば今ある問題など一切なくなります。今の時代に生きる私が行うことはいだきで生き、いだきを伝えることです。それ以外やることはありません。ありがとうございます。

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