愛がすべて
1月末の武蔵野コンサートの前日からまたお腹の一点と感じる場所が痛みを現していました。この痛みは何を分かればいいのだろう、と考えていますが、おおよそわかる範囲内でした。
第一部。貧しさは自分の小ささの中にありました。すぐに頭に来ること。自分の我を通すこと。人の過ちが許せないこと。喧嘩っ早い性格は子供の頃からで、小学生のときには男の子と取っ組み合いの喧嘩をして母が担任の先生から呼び出され、職員室まで謝りに行ったことなど、今になってもまだ自分の中のどうしようもない反発心が爆発することを直そうとしても直せずにいました。コンサートの中で、小さいからと、何度も言葉になり、本当に小さい自分を感じていました。つい最近も電車の中で営業電話をしている女性がいて、ずっと話していることにとうとう我慢ができなくなり、肩 を叩いて、電話は外でしなさいよ、と言っていました。周りの人は我関せず、いつものことですが。最近はこのてのことがまるで我慢ができなくなりました。言うべき時に言うことは当たり前ですが、度を越している自分がいます。すべては度量が小さいから相手のことも許せない感情になるのです。
第二部。愛からすべてが生まれ、愛が導火線になり、愛がなければ物事は決して続けられないとわかったとき、自分の中の愛を否定する頭が消えていき、愛がなかったわけではなく、愛がいつのまにか執念のように変わってしまう意識が問題なのをわかっていきました。あたたかな気持ちが湧いて来て、あたたかな涙が滲みます。継続できることは、愛がなかったら何一つ生まれない、愛の導火線があるかどうか、そこにお金などの利益など何一つ問題になどしない純粋な気持ちがいつもあることは、頭や意識から継続できるものではないとわかったことがただ純粋によかったと感じ嬉しかったです。小さく生きるのも、愛を否定する意識がいつもあり、求めていながら否定していく頭はやっぱり天邪鬼なのでした。
愛が世界を変え、愛はすべて、愛が宇宙を創造。愛のなかでしか生きられない命の発生。存在する。神のような無限を感じる大宇宙のすべては愛でした。
時々感じるお腹の痛みは愛をぶち壊すからと感じた2部です。己の小ささを言葉になりわかったので変えていく努力をしていきます。
武蔵野のコンサートをありがとうございます。