応用コース
みんなと一緒に平和に仲良く生きていければいい、目の前の相手の望むようにしていけたらいい、そういうポリシーだと、社会は全然通用しないんだなあと言葉になった今日です。話にならないという顔で見られそう。悪い人からでも魅力的な人から好かれたら嬉しいし、何でもいうことを聞きたくなるところがあります。もちろん相手は利用して去って行くだけなんですが、そしてこちらにら残るのは恨みです。
憲法、思考停止の罠には憲法が関わってるらしい。「ひとつ頭」には簡単になる。先生の近くに居るときはまだマシだけど、地元に戻ったときなんかはもう本当に毎日ぼわっとした霧がかかって頭も体も重く、まるで全身にずっしりと水分を含んだ雪が積もったかのように眠いです。
思考停止をして本音が苦しくなると、苦しみが先生や高麗さんほか感受性の良い方たちのほうへ行くそうです。自分だけが苦しくなるならまだ良いけどそんな仕組みになっているなら、自分で自分の本音をくみ取りなんとかするしかない。
高麗さんや感受性の良い方の肉体的苦しみなどわからずに完全に眠くなってしまうほうです。人の意識が飛んできてびっくりしたり面倒だなあ、やだなあと感じたりすることはあり、具合が悪くなること、動きたくなくなることは人並みにありますが、だからといって突然倒れたりすることは私は今のところ無いです。東北の方はそういう感性がある方が多数とのことで更に申し訳ない気持ちです。そういえば家系や親戚は霊感ある人とない人に分かれていて、すぐ隣にはそういう世界や苦しみはありました。それなのに無視してきたと思います。これからせめて自分をビンタでたたき起こして参ります。ありがとうございました。
たいして勉強をしていないわたしごときでも、あれだけ世間(学校)から勉強させられたことが自分で考えることの足を引っ張る要因にしかならなかったのかとばかばかしい気持ちなんだから、もっと勉強して良い大学へ行った方はなおのことなのでは。余談ですがわたしはどうせ東京へ行くならおしゃれな大学が良いとだけ考えて東北の催しで話題になった垢抜けた大学の仏文科を受験して落ち別の学校になり、上京したのに山奥で4年暮らしました。?
どういうルートであれこれまでの社会に乗った人、乗れなかった人、乗らなかった人。今とこれからの時代を鑑みると、これまでの社会にはまともには乗れなかった、乗らなかったほうが頭の枠は少ないと感じます。身に付けた余計な物を捨てていく作業もやむなし。逆に言えば私も「目立たず傷つかず極力普通のルートを生きてほしい」という親の願いは叶えてきましたし、「極力余計な質問はせず適度に成績は取れ」という学校の先生の願いも叶えてきたのです。これからはその願いを叶える対象を大いなる存在や新たな世界、自分の内面にチェンジすればよいだけ。いだきしん先生のお話をよく聞き、新しい世界を創る一員となれるよう生き直します。早く強烈な女性への苦手意識もなくします。