応用コースを経てヤマハコンサートへ。
応用コースでは、後頭部に張り付くようにしてあった三角のものがなくなり、前頭葉に光が差し込み、空間とひとつとなっていきました。いつもこのようなことはないのに、この度は、コーヒー販売後の応用コースでもあり、かなり疲れていたのか、何度も意識がなくなり、うとうととし、起きるときは、先生の言葉でした。先生の光の言葉で目をさまし、目を覚ますとパッと空間が明るくなって、新しくなっているのを経験をしました。お話の中の、生命を阻害する金融の世界のしがらみ、権力の構造をしったならば、抜け出すよう、なんとかしたく、思考を変え、生き方変えて向かっていくよりないと分かりました。
昨夜のヤマハコンサートは、イエスキリストのPassion。受難ゆえに、なぜ、パッションといえるのか。との問いを胸につきつけ、演奏を聞かせて頂きます。一部ではどこに焦点あてて聞いていったらいいのか、大変苦労しました。中心が定まらないからです。それも、原因が一部でわかり、府に落ちます。自分の思いでやることはたちまち、阻害され、はまっていくのです。頭でなく、ただ、身体を感じれば良いことに気づきました。そして、私は二部では身体を感じ続けました。まったく自然な在り方なのに、おかしくなっていたのを、取り戻しました。先生のピアノの音から、イエスキリストのエネルギーがそのまま入ってきて、魂ひとつの愛をどれだけ感じたことでしょう。生命ひとつで生きればいいこと。今までわかっていたし、経験もあったのに、今あらたに、生命ひとつで生きて下さっていたことがわかり、わかると、傲慢に生きていた自分勝手な在り方が恥ずかしくなりました。こうやって、先生は見えない空間で、いつも生命ひとつに生きて下さっていたのだ。。この事がわかると、色々なことも変えてきたいと感じるようになりました。自分勝手な体の使い方はもっての他だと感じるからです。大変、申し訳ない気持ちになりました。。まだまだ、表現しきれないです。二部のことは。。あまりにも深く。。あります。。本日の三鷹コンサートに望ませて頂きます。ありがとうございます。