必要十分条件
アントレプレヌールサロンをありがとうございます。
人が大事ということは、うっかり別の人間をコロッと演じてしまう自分のようなあり方では、まず基本以前にだめだとわかります。要を外したまま焦って焦って、周りに合わせてますますわからなくなって、合わせているつもりなのに自分だけなぜか上手くいかなくて、なぜ???同じようにしているのになぜ自分だけうまくいかないの??と考えたときに、そもそも基本的に息をするように自分に嘘をついていたからだとわかったときの衝撃は、それまでの価値観をすべてぶち壊されたもので、得た教訓は『人間、自分も含めて、なめてはいけない』。上手くいくみんなは周りに合わせたのではなくて、自分の気持ちに正直なところを発展していったのだなと。自分の気持ちがわからないのは、スタートにも立てないんだと、学校で誰が教えてくれたでしょうか。自分の気持ちを表現しようとしているうちに叩かれるこども時代の経験をこれまで多くの方がされていると感じると、エチオピアの赤ちゃんの目を見たときのようななんともいえない気持ち高まります。これまでの業を取っていく、いだきに通うこと、いだきで生きること、働くことは、これまでの誰もしていない生き方です。その自覚をもっと持っていこうと当たり前のことを改めて考えます。
親は、以前「年齢のせいですよ」と言われていた眼科を変えたことで、とても良い方向へ進んだように見えます。いだきしん先生のアドバイスあってのことでありがとうございます。父は今日の午後から目を手術します。この場をお借りして恐縮です。
人に親切にしたつもりが、手のひらを返したようにバチーンと叩かれる感じはとても痛く、なかったように扱われることも、その感じで立てなくなる弱さも、先生のこれまでのはたらきを振り返れば、別になんのこともない。先生はどれだけの『この人の存在をなかったことにしたい』『埋めたい』という人の自意識を受けてこられたことでしょう。自分と重ねるのは傲慢ですが、この感じを何万倍にもしてずっと受けてこられたのかということだけは。すごく辛いんですが、辛い経験は、こうしてわからなかった痛みをわかるようになるので、成長とも感じます。あと、私も別の場面で、同じようなことを結果的にしてしまっていることがあるかもしれないといくつかの場面が過ります。そんな過る場面では、相手が悪いのではなくて、自分が弱いときと自覚はありますが、自覚があろうがなかろうが相手の感じ取るエネルギーは『否定感』一択。いろんな理由をくっつけていようが、選択肢はなく『一択』です。そういうものを発しない自分へとなります。
人を助ける、とおっしゃいますが、人を助けると、『この人なしでも上手くいったことにしたい』と思われ、この人の存在をなかったことにしたいという思いを受け、立てなくなります。なんか重くなった、動きにくくなったなと気付くと、そういうものがはりついています。でもそんなのも、『なまけもの』の一言で片付きますし、なんとでも、なかったことにできます。だから目立ちたくないし、そっと見つからないように何かをしたいと思ってしまいます。そんな腫れ物に触るような在り方は、これこそ自分の業によるものですね。無駄に目立つ必要はもちろんありませんけど、こういう感じが自分の業により起きていて、業が消えることで変わるのなら、変えていけるようにします。
何代か前のおじいちゃんは、いまもあるとある学校をつくるために尽力したそうなんですが、もめたのか何かで功労者一覧的なものには一切名前が無く、わたしは偉いことはしていないですが、その感じ、なんかわかる、わかるよと共感するのです。なんでそこまでして人を助けないといけないのと思うのがデフォルトですが、わたしはデフォルトを抜け、いだきで生きる新たな命としてひとつひとつ、命の光をもとに新たなカスタマイズを身に付けておりますので、いだきしん先生の姿を見て、あとはこの上なく正直な結果がついてくるだけです。成長をします。
後半3段落、~ます。という決意の末尾です。