尊い生命
京都での「死について」「ビデオ講演会」と参加叶いました。ありがとうございます。「死について」では、先生の娘さんが生まれて老人ホームをやめ、体制を抜け出してこられて、高麗さんに出会われ、いだきをはじめられたお話がありました。抜け出し、死後の世界のことをよくわかられるようになり、能力があがっても いわゆる金の誘惑がきてものらず、働く場所が無くなっても自身が自身であることをずっと選んでこられたこと。自分が自分になることのお話から、‘存在すること’を問います。
老人ホームである方の最期を看取るのに、医療の役割がはずれてからの3週間、重湯のような食事をひとさじひとさじ 召し上がっていただいて お肌も綺麗になって、ご自身のお姿を鏡で御覧になられ『綺麗になったね』と言われて微笑まれたのちに綺麗になくなっていかれるお姿、あまりの‘死’の美しさに、清い風が生命の内に流れて今も涙がこみ上げてきます。一方で戦争とパンデミックと言われるコロナの状況で、兵士が死んだことさえわからないままにご遺体も祖国へ戻れず、もののように扱われ焼却されていくこと、日本でも病院でコロナで死ぬまで一度も面会叶わず、ご遺体とあう現状…。命に介入され 命があまりにも軽んじられていること、今 起きている、あまりに理不尽で不条理なことに憤りを覚え、不甲斐なさを感じつつ、京都の迎賓館からのコンサートからずっと、一体何ができるのか考え、高麗さんのビデオ講演会を聴く内に、自律して生きることの答えに出合っていきます。手がかりは本音です。頭中心、意識が先行する権力者の行為のおぞましき恐ろしさを目の当たりにします。自分の身に起こらない、戦争も拉致事件のことにも無縁だと思い、無関心である人が多いことも危惧し、自らが為すべきこと浮かんでまいります。
「二股」が続けられるのはあと数年、と存在論の講座でおっしゃっておられたということがずっと心にあります。使われ仕事と、自分を活かせる仕事というのも最近浮き彫りになってきています。自分を活かせると感じた仕事をした時、お声がけをしていた方からコンサートへの申し込みがあることもあるのです。使われ仕事では、生命すり減っていく感覚を覚えます。ですがある仕事の現場では、アントレプレヌールサロンに応用、社会学の講義や存在…と多々講座を受けさせていただいて経験したことを表現できていった時、活かせているのか…とふと感じ、今後は活かすことを重きに主体的に取り組んでいきます。
3日のコンサートの日には、ホールで出会った高麗さんの額入りの詩に出会い、涙こみあげてきました。「緑輝く五女山 集いし友と 歩く 高句麗の風 共に」緑の額、緑の和紙から新緑の美しい香りと心地よい風が吹いてくるようです。「真の自分で生きるひとりひとりは…」からはじまる高麗さんの‘五女山の夢’は、魂ののぞむ平和な世界を表わす詩と感じ、胸の内から切望するのです。ビデオ講演会で、「俺は俺になる」と先生がおっしゃっておられたことを改めて伺い、自律して生きる、というお話から、自分なりに「自律」を解釈していたことに気づかせていただきました。‘自律’をわかっていきたく、分岐点と感じる今、今日の応用コース、存在論と臨ませて戴きます。